【 交流が途絶えると 】
弥生時代には、まだ日本という国家としての「統一」はありませんでした。
故に、それぞれの地域が外国で言う所の都市国家(ポリス)として、「独自の発展」を遂げていました。
そして、日本各地で発掘された、当時の人骨のDNAを解析すると、
日本人の「由来」は多種多様
という傾向が、ハッキリと見て取れます。
そして、壱岐島では渡来人に加え、本土(現在の日本)の人々とも「交流が活発」であった事から、
繁栄を遂げる事が出来た
という事です。

しかし、4世紀に入ると朝鮮半島と九州を結ぶ航路が変わり、交易船は壱岐島を経由しなくなりました。
これにより、
壱岐島の人口は著しく減少し・・・
多くの集落も解体され・・・
歴史の表舞台から姿を消す・・・
という「流れ」になりました。

ところで、日本も「少子化」と言われながら、久しく経ちます。
そこに「高齢化」も加わる事で、外国人(労働者)に頼らざるを得ない時代は、「この先も」続きます。
しかし、一部の地域では地元住民と外国人との「軋轢」が生じています。
勿論、犯罪は論外とは言え、文化や風習を含めたルールの違いでは、
知らないから理解も出来ない
というケースもあるでしょう。

どことなく、外国人の権利を制限し、「義務」を課す方向ばかりに傾いている感もありますが、
同一の人間としての人権
という面にも、同時に目を向ける必要性があります。
なぜなら、
全ての他人事は・・・
いずれ自分事になる・・・
からです、、、

【 再び隆盛を遂げる 】
朝鮮半島との交流が途絶えてから約100年後の5世紀後半頃から、壱岐島では大量の古墳が作られました。
そして、中央(本土)ではヤマト王権が勢力を拡大し、その「影響」は壱岐島にも及んでいました。
その一端として、ヤマト王権は地方の行政を担わせる為に、地方官たる「国造(くにのみやつこ)」を任命し、全国各地に派遣しました。
これにより、
地方を中央(本土)から「間接的」に支配する体制
が敷かれる事になりました。
ただ、一方ではヤマト王権が多くの人材や品物を壱岐島に送り込むバックアップ政策を施した事で、壱岐島は交易を再開する事が可能になりました。
そして、壱岐島に送り込んだ権力者(達)の古墳を作る事で、渡来人などの対外勢力に対する「抑止力」の役割を持たせました。
故に、この頃の壱岐島は離島という独自の存在のみならず、
中央(本土)から見た、国境という防波堤の役割
を兼ね備える、ヤマト王権にとって重要な場所に変わりました。

つまり、壱岐島に送り込まれた権力者(達)にとっても、ヤマト王権にとっても、
お互いにウィンウィンの関係
になり、壱岐島は再び隆盛を遂げる事が可能になりました。
ただ、壱岐島に作られた古墳には、中央(本土)と朝鮮半島のそれぞれの良い特徴が「混ざり合って」取り入れられました。

ところで、親子で意見の対立が生じる事もあるでしょう。
また、考えの相違などは、友人の間でも然り、仕事上の部下と上司の間など様々な場面で生じます。
そして、仕事では業務命令という「伝家の宝刀」、あるいは、「鶴の一声」などもあります(笑)
ただ、親子や友人間でトラブルになりがちなのは、
どちらかが、強い力を持っていると「錯覚」させ・・・
相手を意のままに「コントロール」しようとする・・・
というケースです。
TOPICSでは、
最終的な「選択と決断」を握っているのは・・・
他ならぬ自分自身!!!
と伝えています!

更に、不幸に陥る3つの落とし穴として、
自己憐憫 & 共依存 & 責任転嫁
と伝えています!
故に、「聞く耳を持つ」姿勢と同時に、
自らの「軸や芯」を保つ!!!
という事が大切で必要な場面では、3つの落とし穴を「意識する」事で、回避して下さい!
