心の自給率を満たす為の方法 ~米と小麦のせめぎ合いから学ぶ~

【 戦争特需の穴埋めの日本 】

同じく昭和29年、アメリカでは小麦が空前の大豊作でした。

貯蔵庫も一杯になり、この年に取れた小麦を保管する場所すらありません。

故に、一時しのぎで、第二次世界大戦で使われた輸送船に保管します。

 

 

アメリカ政府が支払う倉庫代だけで、1日2億円掛かり、就任したてのアイゼンハワー大統領の「頭痛の種」になっていました。

この解消法が、先ほどの余剰農産物処理法(案)です、、、

 

そこで、35人の市場調査団を海外に派遣しますが、その一人が全米製粉協会の専務理事で、東南アジア視察のメンバーになったゴードンです。

そして、ゴードンは昭和29年5月に来日し、「米価が高い」日本は、小麦を輸出する相手としては「一番有望な国」と判断します。

 

アメリカは第二次世界大戦の「兵糧」を小麦で賄いました。

また、戦後の日本の飢餓対策にも使われました。

 

しかし、朝鮮戦争終了後は、小麦の過剰が「一気に表面化」しました。

そこで、日本が市場として「目を付けられ」ました、、、

 

 

つまり、

 

アメリカの小麦は戦争特需であり・・・

戦争がなければ(戦争をしなければ)小麦が有り余る・・・

 

という事実です。

そして、一連の計画の「中枢」を担ったのが、アメリカ西部小麦連合会です。

 

【 米の消費低迷に突け込む小麦 】

昭和31年の秋、日本の米は空前の大豊作でした。

全国で40万ヘクタールの「減反」をしたにも関わらず、余剰米は530万トンに及びました。

そして、古米の処理に必要な費用は1兆円を超え、国民一人当たり1万円の負担となりました。

 

米の消費量がドンドン低迷する最中でもあり、農協と販売業者は米の消費拡大運動を始めていました。

すると、この頃、アメリカ西部小麦連合会の会長のリチャード・バウムが来日します。

バウムは、これが60回目の来日であり、東南アジアにアメリカの小麦を「売り込む」事が目的でした。

 

 

【 日本全国を駆け巡るキッチンカー 】

同じく昭和31年の秋、日本全国の農村をキッチンカーが駆け巡りました。

このキッチンカーを導入したのもバウムでした。

キッチンカーの目的は農村の主婦を呼び集め、「小麦料理」を目の前で調理し、宣伝の為に日本人に試食させる事でした。

 

そして、「栄養改善・粉食奨励」をスローガンとし、全国津々浦々の農村を4年間で2万回以上訪れ、日本人の参加者も200万人に上りました。

また、昭和29年に「学校給食法」が制定された事で、パン食の「普及拡大へ一役買った」結果になりました。

更に、日本の製粉業界とパン業界がバウムの宣伝に便乗し、米は体に悪いと「攻撃する」パンフレットも、同じ日本人の手でばら撒かれました。

 

【 密かに譲渡されたキッチンカー 】

バウムと厚生省(現:厚生労働省)はお互いに話を付け、キッチンカーを財団法人 日本食生活協会に寄贈する形が取られました。

すると、「走る栄養教室」や「動く台所」とマスコミにもてはやされました。

しかし、当時の新聞のキッチンカーの記事には、「アメリカ」の文字はどこにも書かれませんでした。

 

 

寄贈後のキッチンカーに関する総経費は、当時のお金で約1億5千万円でした。

そして、アメリカ(バウム)はキッチンカーで出す料理の一品に、「必ず小麦と大豆を使うように」と、事前に条件を出していました、、、

 

【 見放されつつある米農家 】

一方、米農家も一致団結して、米価維持などの運動を始めました。

その当時、米価を維持する為に、国の負担は6千億円になっていたので、日本政府は米の生産支援は出来ないと告げ、米価を据え置きする方針を取りました。

そして、「その後も」米価は上がりませんでした、、、