【 他者の評価は当てにならない!? 】
武力が「物を言う」のが、戦国の世でした!
そして、当時の史料『 多聞院日記 』には、天下人に近い人物が3人取り上げられています。
一人は織田信長、もう一人が武田信玄、
意外なもう一人が朝倉義景(よしかげ)!!!
です(笑)

義景は、北陸の大国の越前を統治していました。
しかし、何度も信長と戦い、最終的に滅ぼされました。
それが故に、
義景は戦(いくさ)が苦手で・・・
消極的なイメージがつきまとう・・・
との評価が、「一般的」には多いです。
しかし、近年の調査では、後の時代に繋がる築城に込められた、積極的かつ先進的な創意工夫も見られ、イメージも「変化しつつ」あります。
【 比類無き発展を可能にした理由 】
義景が拠点にしたのが、福井県の一乗谷です。
一乗谷では、現在も遺跡の発掘が続いている中、
全国屈指の城下町であると同時に・・・
最先端の都市だった・・・
という事が分かって来ました。
その証拠が、
各家に井戸とトイレがあった!!!
からです(笑)
なぜなら、戦国時代では政治の中心の京都の町でも、井戸とトイレは共同が普通だったからです。

他にも一乗谷では、金の加工技術で郡を抜いた遺物も発見されました。
更に、13~14世紀の中国から輸入した陶磁器などが、戦国時代では貴重な骨董品であったにも関わらず、日常的に使われていた事から、
経済的にも豊かだった
という事が分かりました。
そして、一乗谷が「比類無き」発展を遂げた理由が、海外及び北海道を含めた、国内外の活発な貿易(交易)活動であり、
これを可能にしたのが・・・
文化と人の交流の玄関口(窓口)となっていた!!!
からです!

【 芸能(文化)と人材の育成で「おもてなし」を成功 】
戦国大名が憧れ、希求したのが、
家格(家のステータス)
でした。
しかし、朝倉家の家格は低く、それを高める事が義景の至上命題でした、、、
ところで、一つの城下町で18箇所という多くの庭園が見つかっているのは、一乗谷だけです。
更に、義景の館跡では宴会で用いられ、しかも一度使用したら処分される食器が数多く見つかっています。
つまり、義景は、
庭園や領地の景色や光景を眺めながら・・・
饗宴を催す「おもてなし」をしていた!!!
という事です!
おもてなしをする「対象」は、京都から来た貴族や文化人が主でした。
なぜなら、
文武両道をアピールして家格を上げる!!!
のが目的だったからです(笑)

すると、最後の室町将軍となる、第15代将軍の足利義昭が朝倉邸にやって来る事になりました。
家格を高める絶好のチャンスであり、食事も含め絢爛豪華で盛大な饗宴を催しました、、、
ところで、義景は家訓を含め、独自の決まり事を定めました。
それが『 朝倉孝景条々(あさくらたかかげじょうじょう) 』と呼ばれるものです。
そして、その中には、以下の2つの「特徴的」な決まり事がありました、、、
① 芸能の特技ある者は、他国へ移ってはならない
② 他国の猿楽を呼んで見物するくらいなら、領内の猿楽の才能ある者を上洛させて、習わせるべきだ
ちなみに、猿楽とは「能や狂言などの源流」となる芸能(文化)です。

話を義昭のおもてなしに戻すと、義景は朝倉邸の中庭に仮設の能舞台を作り、13に渡る演目を用意し、能を鑑賞させました。
そして、ここで行われていた「背景」にあるのが、
義景は家臣達に・・・
常日頃から芸事(芸能)を一所懸命に習わせ、披露させていた!!!
という事です!
つまり、おもてなしを成功させたのが、
義景が重視して来た・・・
芸能(文化)と人材の育成!!!
でした!

【 心の余裕を失った義景 】
滅ぼされる「前の」義景は、
家臣と共に朝倉家を盛り上げる為に・・・
対等に近い横並びの関係性を築いていた・・・
という姿勢でした。
しかし、滅ぼされる「直前」には家臣との関係性を、
上下や主従に変えた事で・・・
不穏や対立を引き起こした・・・
という状態でした。
故に、義景は家臣に出兵を命じるものの、「拒否」されました。
しかし、1573年に近江への出陣を強行し、敗北を喫しました。
つまり、
義景が心の余裕を失った事が・・・
滅亡への道を歩ませた・・・
と、「歴史」が物語っています、、、

では、番組の紹介は終了し、締め括りです!