【 捨てられた原因 】
39歳の1892年、北里は数々の業績を抱え、日本に帰国しました。
しかし、北里を受け入れてくれる研究所は皆無でした。
その原因が、帰国の5年前に当たる1887年、ドイツ留学中に起きた、ある病気に関する「論争」でした。
そして、論争の種となった病気が、
脚気!!!
でした!
現在では、脚気はビタミン不足により発症する事が分かっていますが、当時は脚気菌が原因との説が「主流」でした。
そして、特に当時の日本の「軍隊」では、脚気患者が急増していました。
しかし、北里は検証実験等を通して、脚気菌説を「真っ向から否定」しました。
そして、日本で脚気菌説を「支持」していたのが、北里に細菌学の基礎を教えた、東京帝国大学教授の緒方正規でした。
つまり、北里は脚気菌説を否定した事で、
恩師の顔に泥を塗った
と見做され、東大医学部と激しく対立しました。

そして、北里批判の「急先鋒」に立ったのが、陸軍軍医で小説家の森鴎外(林太郎)でした。
森:
『 (北里は)学識を重んじるあまり、情けを忘れた。 』
北里:
『 私は情けを忘れたのではなく、(患者を治す為に)私情を抑えただけだ。 』
このように、2人は雑誌等を通して「相対立」する事態となりました。
しかも、この論争は北里が帰国する5年前の出来事でした。
つまり、北里は、
感情優位の恩師と母校からの・・・
一方的な禍根が原因で捨てられた・・・
という事です。
しかも、それが帰国後も続けられたという事です。
帰国を決断するに当たっては、既に北里は世界の研究所から「引く手あまた」だったにも関わらず、、、

【 拾われた理由 】
すると、慶應義塾創始者の福沢諭吉が、北里を拾う事になりました!
その理由を、福沢は次の通り言い放ちます、、、
福沢:
『 優れた学者を生かさないのは国の恥。 』
そこで、福沢は私財を投じて私立伝染病研究所を開設し、北里を所長として招きました。
そして、北里は自らで発見した血清療法を元にして、ジフテリアなど他の様々な伝染病の予防や治療に力を注いでいきました。
すると、北里に「教えを請う」為に、研究者が続々と集まり始めました。
そして、研究者の中には、「後に」黄熱病研究で名を馳せる野口英世、赤痢菌を発見した志賀潔などもいました。

【 反面教師にした自らの経験 】
北里は赤痢菌を発見した志賀潔の論文に、自らの名前を掲載するのを拒みました。
つまり、
手柄の全てを弟子に譲り・・・
弟子の頑張りと努力の成果を・・・
率直に評価した!!!
という事です!
そして、72歳の1925年、世界の権威ある研究者を集めた第6回極東熱帯医学界が日本で初めて開催されました。
つまり、日本の医学が世界に認められた証となりました。
すると、北里は学会の冒頭演説を依頼され、次の話をしました、、、
北里:
『 《 学問には国境なし 》という言葉は、医学にこそ当てはめられる。 その恩恵は国・人種の差別は全くなく被る(享受出来る)べきものである。 』

ちなみに、私立伝染病研究所の所長時代の北里は、弟子達の些細な不注意には雷を落としました!
故に、ドイツ語で雷を称する「ドンネル」とあだ名を付けられ、とても「恐れられて」いました(笑)
ただ、ドイツ留学時代の亀の子シャーレの実験では、水素を扱った事から爆発事故を幾度も引き起こしていたので、
自分と同じ事を繰り返させない為の雷・・・
だったのかもしれません、、、

では、番組は終了し、ここ迄の内容に関し、一言だけコメントします!
北里が捨てられた原因、そして、拾われた理由、
そのどちらも・・・
自らの「思い・言葉・行動」の一貫性を保つ実践をした!!!
つまり、
ブレる事なく・・・
自らの「軸や芯」を保ち続けた!!!
という「姿勢」を見て取る事が出来ます!
では、
脚気論争で、一方的かつ恣意的な評価や判断を下されながらも・・・
北里が自らの姿勢を保つ事を可能にしたのは、何だったのか???
という点を考えて下さい(笑)

では、メタファー(物語や比喩・暗喩)として、漫画本『 美味しんぼ 』(作:雁屋 哲、画:花咲アキラ、小学館)から第83巻掲載の「 特上うなぎの意味 」を少し眺めます!