判明する新たな事実の意味とは ~桜田門外の変と量子力学から~

【 目的のためには手段を選ばず 】

桜田門外の変の時に使われたと思われる銃が残っています。

この銃には桜の花が刻まれている事から、アメリカ製の銃を模倣して日本で作られたものと判明しました。

 

実は、桜田門外の変が起こる6年前にペリーが日本に銃を持ち込み、20丁を将軍に献上していました。

そして、将軍が御三家である水戸家(藩)にも銃を渡していたと考えられています。

そして、それを元にして水戸家独自の銃を作り、それが桜田門外の変で使われたという事です。

この頃の徳川斉昭は軍備増強を進め、大砲や日本初と言われる戦車もどきも製造していましたが、その理由が外国を打ち払う(攘夷)という「名目」でした、、、

 

 

ところで、日本は基本的に移民を受け入れていませんが、最近は外国人技能実習の名目に始まり、その名称も「目眩まし」かの如くコロコロ変え、言わば先ほどの派遣と同様に、賃金の安い使い勝手のいい労働力としているのが実態です。

これも何度も繰り返しますが、

 

最も問われるのが真の動機

 

になります。

そして、真の動機を良い意味で補完してくれるものが、

 

正直に丁寧な理由の説明

 

になります。

皆さんの職場でもちゃんと行われているでしょうか、、、(笑)

 

【 今も変わらぬ改竄と真の動機が解く謎 】

桜田門外の変の直後に危機が訪れます。

井伊直弼の実弟が藩主をしていた宮崎県の延岡藩の資料には『 井伊直弼が襲撃者を取り押さえた 』と書かれていました。

つまり井伊直弼は死んでいないというのが、幕府が出した《 表向きの公式情報 》だったという事です。

勿論、現場では大名行列を見物していた多数の見物人も「事実を目撃」していたでしょうが、、、

 

 

桜田門外の変で一番窮地に立たされたのが徳川幕府でした。

長い間将軍家を支えて来た彦根藩と、襲撃した徳川御三家の一つの水戸藩(の浪士)との対立になってしまったからです!

そして、幕府内では藩の取り潰しが議論されますが、何と!取り潰しの対象とされたのは、襲撃された彦根藩の方でした!!!

 

と言うのは、江戸時代の法律の武家諸法度では『 藩主が跡継ぎを決めていない状態で亡くなった場合、その藩はお家断絶 』というルールになっていました。

予想も出来ない突然の襲撃で、井伊直弼は跡継ぎを決めていませんでした。

そして、もし彦根藩が取り潰されると、今度は彦根藩士達が彦根浪士になり復讐が繰り返される怖れが出て来てしまいます。

いわゆる「忠臣蔵の再来」という事態です、、、

 

故に、幕府は井伊直弼を生きている事にし、その間に彦根藩で跡継ぎを決める算段をして貰っていました。

実際に東京の豪徳寺にある井伊直弼の墓には、桜田門外の変から約2ケ月後の「閏(うるう)3月28日」が命日として刻まれています。

そして、何とか跡継ぎを決め彦根藩は継続出来る事になりました、、、

 

 

ところで、昨今も「文書の改竄」が問題になっています。

しかも、改竄を免れる為に文書や記録そのものを「残さない(取らせない)」方向へ拍車が掛かっています。

一部の政治家は何かあると「民主主義の危機だ、冒涜だ」などと騒いでいますが、文書や記録を残さない事そのものが大きな危機です!!!

 

それは、今回のように「後になって」真実(事実)が明らかになり、それを「反面教師」のように同じ過ちを繰り返さない為の学びとしての機会を奪うものだからです。

これも何度も繰り返しますが、

 

賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ

 

果たして、これから先は「全てを経験」で学ばねばならないとすると、本当に人類は生き残る事が出来るのでしょうか、、、