【 桜田門外の変が起きた背景 】
1853年にアメリカ海軍提督ペリーの黒船来航があり、翌1854年に日米和親条約が締結され日本は開国します。
この時、「開国派」である彦根藩の井伊直弼と「攘夷派(外国を打ち払う)」である水戸藩の徳川斉昭が対立します。
井伊直弼は徳川斉昭を幕府の中枢から追い払い、終生謹慎という意味で水戸に封じ込めました(安政の大獄)。
これにより井伊直弼は水戸藩の「怒りや恨み」を買ってしまいます、、、
ところで、これも世界各国で相次いで戦争が起こっています。
TOPICSでは幾度も伝えていますが、
外交の失敗が戦争である
そして、
真の意味の失敗とはコミュニケーションの放棄
になります。
更に「(過度な)二者択一に陥らない」という視点も然る事ながら、
物事や出来事は大なり小なりそれぞれを反映している
という視点も伝えています。
桜田門外の変は外国という「外側」が対象でしたが、本質は「内側」でも同じ事です。
そして、この「外側」と「内側」は自分自身にも当てはまります、、、
【 明かされた桜田門外の変の事実 】
先程は水戸の浪士達への合図の為に撃った銃ですが、
実は・・・その発砲で井伊直弼は死亡した
という事実が判明しました!!!
故に、剣の達人であっても、手も足も出せなかったという謎が解決しました!
そして、この銃を撃ったのは直訴状を差し出した森五六郎という人物ですが、その直後に森五六郎は自首していました。
当時の取り調べ記録でも、その事実は「既に判明」していました。
では何故、『 雪降る中での武士(侍)同士の斬り合い・・・ 』という従来の説だけが「一人歩き」していたのでしょうか、、、
ちなみに、リーダーの関鉄之助も撃ってはいませんが銃を所持していました。
更に、矢倉方という武器製造担当部署に所属していた森山繁之介も銃を所持していた事が分かり、現場では少なくとも3丁の銃が用意されていた事も分かりました。
ところで、昔からテロも相次いで起こっており、その手法もドンドン過激化しています。
戦争でもドローンが兵器として活用されたりなど、巻き込まれる国民などは凄惨かつ壮絶な現場を「目の当たり」にしながらも、操縦している兵士にとっては「画面上の操作に過ぎない」というのが実態です。
現場に出向けば良いという問題では全くありませんが、色々な問題を当事者から聞く事の大切さも同じ事です。
最近はもっぱら「パフォーマンス」に過ぎない面が多々見受けられますが、、、