そして、私達は誰もが「ついつい~」などの弱い面も兼ね備えておりますし、それは私自身も二日酔いなどの経験を「繰り返して来ている」事からも同様です(笑)
そして、このような事についてアリストテレスは、
アリストテレス:
『 過剰な運動も運動の不足も身体の強さを損なうし、同様に食べ過ぎや飲み過ぎも、逆に飲食の不足も健康を損なうのであって、適度な量が健康をつくり出し、増進し、保全するのである。 』
と述べており、番組では、
・ 勇気が過ぎると向こう見ずになり、不足すると臆病になる
・ 気前の良さは過ぎると浪費になり、不足するとケチになる
・ 欲望が過ぎると放埒になり、不足すると無感覚に陥る
と紹介されておりましたが、同じような事は以前のTOPICSで既にお伝えしております、次の一例にも当てはまります。
喜びの別の顔は嫉妬(も混じるケースもある)・・・
怒りの別の顔は集中力(がある)・・・
哀しみの別の顔は愛情や情熱(が深い)・・・
楽しさの別の顔は罪悪感(を同時に伴うケースもある)・・・
いよいよ難しく感じて来ましたか???(笑)
そこで、これらの最適なあり方をアリストテレスは《 中庸 》と呼びますが、一方で中庸を選ぶのも難しいと話しています。
そして、言い得て妙!?ではありませんが、このような状態の時を番組では「 弓矢で的を外すのは簡単に出来るが、真ん中に的中させるのは難しい 」と表現しておりました(笑)
そして、解説においては、
解説:
『 超過でも不足でもない中庸を実現する事によって「徳」が身に付いていくと。
この中庸とはしばしば「程ほどに」とか言うような仕方で捉えられる訳だが、必ずしもそういう事ではなく、それでは不充分で、「程ほどに」食べればいいだけではなくて、「食べるべきものを」「食べるべき時に」「食べるべき程度に」といった、様々な条件を満たして初めて真に中庸と言えるとアリストテレスは述べています。 』
このTOPICSでは「程ほどに」と同じく「塩梅」や「さじ加減」や「腹八分(目)」などもコメントして来ており、人間関係においては「君子の交わりは淡きこと水の如し」や「水清ければ魚棲まず」などの言葉も頻繁にご紹介しております。
そして、このような視点を「派生」させていくと《 調和とバランス 》となり、これは「5:5」である必要性も必然性もなく、人それぞれ、また時と場合によっては「9:1」でも「7:3」でも保たれるように臨機応変に変化させても良いとお伝えしております。
そして、解説においては『 「食べるべきものを」「食べるべき時に」「食べるべき程度に」 』のように「○○べき」という視点が活用されておりますが、
「○○べき」との視点は・・・
時に自らのみならず他人をも「制限」させる事に繋がりやすくもなるが・・・
《 自分自身 》を知っていないと「○○べき」との発想(着眼点)は出て来ない!
という視点も同時に成り立ちます。
表現を変えると、
「○○べき」とは自らの「軸や芯」から生み出される
とも言えます。
ただ、これが「制限」の方向に偏り過ぎてしまうと、
「目的」と「手段」が逆さま(正反対)になってしまうかの如く・・・
「本末転倒」に陥るリスクも生じる!
という点は覚えておいて下さい!
似たような面としては「悪の反対は必ずしも善とはならない」ともお伝えして来ております、、、
そして、番組の最後には、
解説:
『 哲学を学ぶというのは、特に倫理学のように実践が重要だと言っても、すぐに実践出来なくとも理論として知っている事が実践の積み重ねの中で思いがけない所で生きてくる(活きてくる)という事が様々な場面で起こり得るのではないかなと思います。 』
と締め括られておりましたが、ここからシンプルに私なりの締め括りに入って参ります!