「やってる感」と「やった感」の違い!? ~私の受験体験から(笑)~

「自ら」の「経験と時間」も大切な「糧」となり・・・

「他の人」の「経験と時間」も・・・

「自ら」への貴重で大切な「糧」とする事が出来る!!!

 

のが、これも「真実」です。
そして、これは現在のコロナ渦に限りませんが、経済的な事情などから、一生懸命にお一人でアルバイトや奨学金を受けながら、受験代や学費を捻出されている方もいらっしゃるでしょうし、また、その反面においては、学業を続ける事を断念せざるを得ず、悔しく悲しい思いをされている方もいらっしゃる事と思います。
そして、特に今回は、

 

「倖せ」とは・・・

文字通り・・・

「人」の支えがあってこそ成り立つもの!!!

 

です。
現在のコロナ禍という状況では、感染拡大防止の為に「人との距離」を保つのが難しい環境である事も事実ですし、それが大切で必要な面がある事もその通りです。
ただ、

 

「心の中」では・・・

先ほどの「主体性」「受け身」「やってる感」「やった感」を・・・

あなたなりの「想像力」を活用して・・・

「繋げて」「重ねて」みて・・・

 

そして・・・

「あなた」の「倖せ」を・・・

今一度「考えて」みて下さい・・・

 

そして、高校3年生時であったか、1浪目の時であったかは定かではありませんが、反対という意味ではなく、次のような趣旨の事を父から言われた事を憶えています。
それは、その当時の私は受験出来るのであれば、何校でも受けたいと話した事に向け、

 

仮に複数合格しても入学出来るのは1校だけなんだし・・・

合格しても入学する気が最初から無いのであれば・・・

そこは受験しない方が良いと思う・・・

 

なぜなら・・・

その学校に本当に入学したい人が・・・

入学出来なくなってしまうから・・・

 

と。
勿論、ここでの意味は、合格や不合格、はたまた、成績などにおける上から目線や優越感というものでは全くありません。
「当時の私」では、そこまで「考え」も至っておりませんでしたが、「今の私」であれば、その父の言わんとする趣旨が、「理解」出来ているつもりです、、、

また、「当時」は同じく「考え」も至っておらず、自らも「余裕が無い」状態で、「思い」も至っておりませんでしたが、これも「今」では、勉強(という「経験と時間」)に専念させてくれた両親には、とても「感謝」しております。
少しは、私も学んだ?成長した?のでしょうか(笑)