見ている景色は違う・・・?

こんにちは。
レイキ ヒ-ラ-&ヒプノセラピストの瀬川です。

 

明日から4月に入りますが、私の住んでいる青森県五所川原市も積雪がなくなり、雪のほぼ白一色の景色から、徐々に土の茶色や草の緑色が見えるようになり、これからはタンポポなどのお花のカラフルな色で彩られた季節に入っていきます。
そこで今回は「見ている景色は違う・・・?」というテ-マで進めて参ります。

 

ところで、私はとても「字」が下手です。
何かの提出書類やお祝いの袋などは丁寧に書くよう心掛けていますが、このTOPICSのテ-マなどをメモしたりしている「字」においては、翌日に見返すと読めない「字」も多々あり、いつも反省していますが・・・同じ事を繰り返したりもしています(汗)

 

そして、「字」も下手ですが絵などの「芸術」においても自分にはセンスがないと実感しています。
小学生の時に私が書いた絵が佳作に入り、あるデパ-トで展示されることがありました。
その絵は町の中の風景を描いたものですが、建物の壁が白色だったこともあり、私は横着して白色だからわざわざ絵の具で塗らなくてもいいだろうと思い提出したのですが、そのような横着な絵?が佳作に入ったことで何とも不思議な感じを受けたことを覚えています。

 

このように芸術センスのない私ですが、ピカソという名前や絵は見たことがあります。
皆さんもご存じかと思いますが、ピカソの絵は構図や色遣いがとても特徴的です。
その絵の元は何を下絵や構図にしているかが分からないほどです。

そして、まず今回のテ-マにおける「見ている景色」ですが、結論から申しますと、家族、親子、夫婦、恋人などの親しい間柄においても、

 

見ている景色は違う

 

ということです。
そして、見ている景色は違う、ということを認識しておくと、

 

人間関係において役に立つ

 

ということが挙げられます。
先ほどのピカソがどのように絵を製作していったのかは分かりませんが、おそらく、

 

何かを元の題材としている

 

ということからスタ-トしているかと思われます。
そして、その何かの元の題材に対して、

 

イメ-ジや想像力を加味して作品を創り上げている

 

と言えるかもしれません。
そして、ここでのイメ-ジや想像力を表現したものが、

 

構図や色遣いに表れている

 

と思われます。
ところで、このTOPICSにおいても繰り返しお伝えしていますが、

 

イメ-ジや想像力を司っているのは潜在意識

 

になります。
そして、その特徴として、

 

潜在意識はイメ-ジや想像と現実を区別出来ない
そして、
繰り返すことで定着していく

 

という点があります。
ピカソがどれほどの数の作品を残しているかは分かりませんが、絵の創作過程においては、何度も繰り返しイメ-ジや想像力を駆使していたことと思われます。

と、すると・・・ピカソが絵に表した構図や色遣いは、

 

ピカソの目には現実として捉えられていた・・・???

 

という可能性が残っているかもしれません。
先ほど私はピカソの絵においては、「その絵の元は何を下絵や構図にしているか分からない」とコメントしましたが、もしかしたら、ピカソにとっては、

 

自分に見えている景色をそのまま絵として表現している

 

のかもしれません。
つまり、私達の多くが見ていると思っている景色と、ピカソが見ている景色というのは、

 

全く違った現実としての捉え方をしている

 

という点が違うのかもしれません。
では、これのどのような点が「人間関係において役に立つ」のでしょうか?
まず一番身近な親子のケ-スで考えてみます。

親子において特徴的なのは、

 

親の考えなどが子どもに受け継がれやすい面もある

 

ということが挙げられます。
これは至極当然の反応です。
なぜなら、

 

親は自分にとって一番良いと思われる考えなどを子どもに教育する

 

という自然な流れがあるからです。
しかし、だからと言って親と子が全く同じ考えや人間性を持つに至るということも、ほぼほぼないことと思われます。
なぜなら、

 

親と子の間には、経験の差と生きてきた年月の積み重ねの違いがある

 

ということです。
親が40歳で子どもが20歳であれば、20年という経験の差と年月の積み重ねに違いが出てきます。
そして、当然のことながら四六時中一緒に行動している訳でもありませんので、

 

経験する内容や状況や環境も全く違ってくる

 

ということになります。
そして、経験する内容や状況や環境の違いに加え、

 

もともと備わっている個性の違い

 

という点も大きく関係してきます。
なので、親と子の関係においても意見や考えの違いがあるのは自然なことでもあります。

では、これを兄弟姉妹などの身近な家族や親類、夫婦、恋人などに加え、さらに幅広い職場などの人間関係として考えてみて下さい。
そこには、年月の積み重ねの違いや経験の差、経験する内容や状況や環境の違い、そして、個性の違いといった要素が膨大に存在しています。
となると、人間関係を広げて見ていけばいくほど、

 

見ている景色の違いが鮮明になってくる

 

という傾向が顕著になっていくかと思われます。
そして、「見ている景色の違い」とは、実は、

 

ある状況や出来事に関して、どのように意味づけを行っているかの違い

 

ということになります。
これをもっと簡単に表現すると、

 

ある状況や出来事に対して、どのような感情を持ち、どのように反応するかの違い

 

ということになります。
例えば、親の死という出来事に対して遺産を巡る争いなどが絶えないのは、このような意味付けの違いから生じていることもあります。
また、カウンセリングなどでも、一生懸命親の介護をしてきて親が亡くなったのは辛く寂しいと思う反面、どこか自分の中でホッとしている自分に気づき、そのことに対する罪悪感などを持ってしまっているという方もいらっしゃいます。
周りからは良く頑張ったねと声を掛けられる反面、ホッとした自分を許せない、あるいは、周囲の人には自分の気持ちを分かってもらえないと思い込んでいるなどのケ-スもあります。

人間関係を円滑に進める方法の一つには、

 

自分のことを理解ってもらう前に、相手のことを理解しようと務める姿勢

 

が大いに役に立ちます。
これは勿論、相手の言いなりになったり、自分の意見を押し殺すという意味とは違います。
まず前提として、

 

相手の見ている景色と自分の見ている景色は違う

 

ということを意識することです。
そうすると、

 

見ている景色の中の違いが分かってくる

 

ということに繋がり、この違いを知るということが、

 

相手を理解する

 

ということに繋がっていきます。
そして、一番身近であろうと思われる親子の間でも違いが生じるのであれば、

 

それより広がっていく人間関係においては違いがあって当たり前

 

と思えるようになっていきます。
そして、相手との違いを自分が理解するということは、

 

相手に自分のことをより理解して貰える

 

ということと表裏一体の関係になっていきます。
「見ている景色は違う」ということを少し意識するだけでも、より素晴らしい人間関係における構図や色遣いを彩っていけることと思います。

そして、確かに「見ている景色は違う」ということはありますが、「見ている景色は同じ」ということも多々あります。
そこで皆さんは「テレパシ-(telepathy)」という現象をどのように捉えているでしょうか?
一般的にテレパシ-とは、

 

言葉を介することなく意思疎通を行うこと

 

と捉えている方も多いかもしれません。
これが間違いということではありませんが、テレパシ-には別の見方や解釈も存在します。それは、

 

テレパシ-とはある状況や出来事などに関して、同じ感情を持ち、同じように反応すること

 

という見方や解釈もあります。
言わば、その場の雰囲気を同じく読み取るといった、

 

シンパシ-(sympathy) = 共感・共鳴

 

という表現の方がシックリくる方が多いかもしれません。
そして、「見ている景色が違う」と意識しているからこそ、

 

同じ景色を見ている、という違いをも感じることが出来る

 

という表裏一体の関係が成り立ちます。
テレパシ-というと、何かオカルトめいた類のお話と思われていたかもしれませんが、私達が日常的に経験している一つの現象に過ぎません。
人間関係においては色々な状況や出来事がありますが、まずは、「見ている景色が違う」ということを意識し、それがひいては「同じ景色を見ている」ことと表裏一体であるということをよろしければ考えてみて下さい。

 

ちなみに、ここから先は余談ですが、現在、道徳の教科書検定が話題に上がっています。
パン屋を和菓子店に修正させたり?といった点もある模様ですし、今後は「特別の教科」とされ、点数での数値化は行わないようですが、記述式などの成績評価の対象となるようです。
その他にも色々な問題点なども指摘されています。

今回のテ-マの裏側には、いわゆる「人それぞれの景色の見え方がある」という至極当然のことを扱いました。
しかし、今回報道されているような道徳に関するニュ-スを見ていると、

 

同じ景色を見ていると思い込ませてしまう
ということと、
他の人と同じ景色を見れない人は評価が違ってきてしまう

 

といった点が多々あるように感じ、個人的には危惧を感じる面も多々あります・・・

2017年3月31日 03:03

「ドラゴン桜」からの小さな簡単な自信の積み重ね

こんにちは。
レイキ ヒ-ラ-&ヒプノセラピストの瀬川です。

 

ところで、私はこのTOPICSのテ-マを考えるに当たりまして、出来るだけ身近で、かつ、多くの方に当てはまりそうな話題をとアンテナを張り巡らしたりしておりますが、このアンテナの中には、セミナ-や講座等におけるご質問や、あるいは、カウンセリングなどにおける多くの方の共通点など、そしてまた、季節などの自然の事柄にも目を向けるように心掛けています。
勿論、このアンテナに届いた事柄をダイレクトにテ-マとすることもありますが、時には、届いた事柄からの連想・イメ-ジから湧き出てきたテ-マをお伝えすることも多々あります。
そして、この3~4月の季節と言えば、やはり「桜」という事柄が挙げられます。
そこで、今回は「桜」からの連想・イメ-ジを活用して「「ドラゴン桜」からの小さな簡単な自信の積み重ね」というテ-マでお届け致します。

 

とは言っても、「ドラゴン桜」って何???ということになろうかと思います。
まず、「ドラゴン桜」とは、10数年前に放映されたTVドラマです(笑)
古いドラマも好きでよく観たりしているので、そのような娯楽も私のアンテナにはよく引っかかります(笑)

この「ドラゴン桜」というドラマは、偏差値36から東大へ現役合格を目指すという高校生の物語です。
似たような題材としては、数年前に実話を元にした「ビリギャル」という映画も上映されていました。
10数年前のドラマということもあり、当時と今では受験の仕組みも変わっている点もあるでしょうし、いわゆる受験に対するショック療法的なデフォルメされた描き方もされておりますが、楽しく気軽に観れる内容ですので興味のある方はご覧になってみるのも面白いかもしれません。

 

そして、このドラマの第6話「英語対決! 勝負だバカ6人」という回があります。
題名からしてデフォルメが多用されていることがお分かりになるかもしれませんね(笑)
そして、この第6話では「出来る」ということと「減点法」というキ-ワ-ドを読み取ることが出来るかと思いますので、それを元に進めて行きたいと思います。
なお、以下の教師と生徒とのやり取りは、ドラマ内で交わされているセリフと一致するものではありません。
あくまでこのTOPICSを進めて行くための、私のおぼろげ?な記憶とテ-マの趣旨に沿った形式でお伝え出来るよう変更しております。

まず、英語の教師が生徒に聞きました。

 

「あなたは英語が出来ますか?」

 

と。
すると、生徒は、

 

「英語は全然出来ない」

 

と答えます。
そこで、教師はさらに以下のように聞きました。

 

「では、何か出来るスポ-ツはありますか?」

 

と。
すると、ある生徒が、

 

「25m位は泳げるから、水泳は出来るよ」

 

と答えました。
そして、このドラマ内でも描かれていますが、この点に、

 

「出来る」ということ

 

というポイントを見出すことが出来ます。
それは、

 

スポ-ツであれば少し行えることを「出来る」と言えるのに、どうして英語となれば「出来る」と言えないのか?

 

という点です。
水泳が出来るという点に関しては、25m位は泳げるという事実があります。
しかし、この25mをクロ-ルで泳げるのか、あるいは、平泳ぎでは泳げないのか、また、1分で泳げることが出来るのか、あるいは、泳ぎ切るのに3分かかるのか、といった点はほとんど「出来る」ということに関して考慮に入れていません。

 

その一方で、英語に関して「出来るのか?」という点に関しては、アルファベットは書ける、あるいは、簡単な挨拶ぐらいであれば出来るかもしれないのに、「出来る」とは答えづらいという側面が見えます。
ここには、英語が「出来る」というのは、ペラペラと話せる、あるいは、長文を読むことが出来る、といった何らかの前提条件を自分で設けていることと思われます。
そして、「出来る」ことと「出来ない」と考えていること、あるいは線引きを設けている前提条件を創り出しているのは、

 

他ならぬその人自身である

 

ということです。
勿論、自分自身に高いハ-ドルを設定し、それを超えていく目標を課すことも大いに役立つことと思われますし、素敵なことと思います。
しかし、「出来る」ということに関してあまりにも高いハ-ドルを掲げてしまうということは、時には、

 

絶対的な完璧主義

 

を目指さざるを得なくなるように、自らの自信を積み上げているという実感を伴う状況を自らが塞いでしまっているケ-スもあることと思います。
そして、これはご自身のことのみならず、同じような前提条件を、

 

他の人にも求めてしまいがちになる

 

というケ-スに繋がっていくこともあり得ます。
自分に高い負荷をかけて「出来る」ことを目指すというのも一つの方法ですが、そのためには、

 

事前に高い筋力を養う

 

必要性も出てきます。
これが出来る人はそれでも構わないと思います。
ただ、その一方で、あまりにも自分の身の丈に合っていない高い目標を「出来る」という点に設定してしまうと、多くは達成出来ないだろうとの思いで途中で諦めてしまうこともあろうかと思います。
なぜなら、ここでの「出来る」という意味は、

 

出来て当たり前

 

という思いも隠れているからです。
このTOPICSでも繰り返しお伝えしていますが、高い目標を達成するのに効果的な方法の一つには、

 

簡単にクリア出来る小さな目標を段階的に創っていく

 

という点が挙げられます。
もし、なかなか自分の行っていることに自信を持てないと感じてしまう時は、まず、「出来る」という小さな簡単な自信を自分が持てるために、

 

自分自身の中であまりにも高いハ-ドルを設定していないか?

 

という点を考えてみて下さい。
そして、ハ-ドルが高いと感じた時に、

 

自分の能力はその程度・・・!?
と思い込んでしまう代わりに、
自分に出来ることは何か・・・?!

 

という点を探してみて下さい。
低いハ-ドルを設定するというのは能力が低いから、ということでは全くありません。
簡単にクリア出来る目標を段階的に掲げていくというのは、先ほどの、より高いハ-ドルを超えていくために事前に筋力を養うことと自然と結びつき、

 

無理することなくマイペ-スで自信を高めていける

 

ということに繋がっていきます。

それでは、次は「減点法」に話題を移ります。
ところで、私は2015年11月のTOPICS「明石家さんま さんの「神対応」から」において、人生における「加点方式」の有用性もコメントしています。
「減点法」と「加点方式」では全く真逆のことのように思われるかもしれません・・・
しかし、「逆もまた真なり」ということと、どのような状況や環境であろうと、ポジティブな面を見出せばポジティブな反応を得られる、という視点から以下は読み進めて頂ければと思います。

 

このドラマ内において、東大入試における英作文の採点方法は「減点法」であると紹介されています。
つまり、この「減点法」という採点方法は、高度な文章構造や難解な単語を活用することで点数が高くなる訳ではなく、間違いが少なければ少ないほど点数が下がらない、という方式です。
ちなみに、今の方式はどのようになっているかは分かりませんが、私が浪人時代に学んだ英語においても、基礎を学ぶ際は東大入試の英語も活用されていました。
つまり、私の浪人時代においても、志望先の学部によって難易度は変わりますが、東大入試の英語は基礎が出来ていれば充分解答出来ると教わりました。

 

話しが逸れてしまいましたが続けて参りましょう。
このドラマ内において紹介されていた英作文の問題は、いわゆる4コマ漫画のセリフを英語で自由に埋めるという問題です。
つまり、セリフのない4コマ漫画からセリフを自由に組み立てて、一つのスト-リ-とする、という問題です。
この手の問題を日本語で行うと、ほぼ全ての人が満点を取れることと思います。

 

例えば、4コマ漫画の最後の場面が、彼氏が彼女に花束を渡そうとしている場面と仮定します。
これまでの3コマ迄の場面で、知り合う場面、喧嘩をした場面、そして、それぞれ一人になって考えている場面が描かれていたとします。
では、あなたはこの4コマ目にどのようなセリフを入れるでしょうか?
日本語で構いませんのでチョット考えてみて下さい・・・

 

どうでしょうか・・・?
人それぞれ様々なセリフが浮かんだことと思います。
そして、実はどのようなセリフを思い浮かべようと、よほどスト-リ-と掛け離れていない限り、皆さん正解になることと思います。
例えば、

 

「最初に出逢った頃の気持ちを思い出したよ。だから結婚して欲しい!」
「喧嘩もしたけどこれからは仲良く付き合っていこうよ!」
「一人になって考えたけど、やはり君が好きだ!」

 

などなど・・・。
そして、ここで問われているのは、あくまで英作文の能力です。
私ももはや英語に関して自信はありませんので、あえて上記のセリフを英作文はしません(出来ないというのが本音です)が、上記のセリフを英作文にするとなると、

 

それなりの長い文章構造を活用し、使用する単語も多くなる

 

という点は共通しています。
そして、「減点法」というのは、ちょっとした文章構造の間違いや、前置詞(at,in,onなど)の間違い、そして、単語の間違い(スペルミス)が点数から引かれていくということです。
例えば15点満点において、スペルミスが2つ、前置詞の間違いが2つ、そして、ちょっとした文章構造の間違いが1つとすると、少なくとも5点減点され点数は10点になります。
そして、これは色々考えて、今の自分にとって精一杯の英語力を駆使しての結果です・・・

では、発想を変えて出来るだけ高い点数を取ってみましょう。
それは、

 

「I love you!(私はあなたを愛している)」

 

です。
長文を活用しても、伝えたいことは「愛している・好きです」という内容のセリフにほとんどの方が辿り着いたと思われます。
しかし、同じ思いを簡単に伝えている「I love you!」はどうでしょうか?
もしかしたら、この問題は小学生でも解答出来るかもしれません。
そして何より、

 

減点しようがない・・・

 

という所が最大のポイントになっています。

今まで「出来る」ということと「減点法」を見てきました。
私達が「自信」を持つ時には様々な状況も考えられますが、その内の一つには、

 

今まで出来なかったことが出来るようになった

 

という点も挙げられます。
そして、この出来なかったことが出来るようになるということは、

 

小さな簡単な出来ることの積み重ねの結果

 

という側面もあります。
そして、自信を積み重ねるということは、

 

行動を起こす

 

ということに繋がっています。
自信を持つのにイメ-ジトレ-ニングを行うのも確かに有効な手段ではありますが、やはりそこに行動が伴うことで更なる自信に積み重なります。
例えば、道で困っている人がいたら声を掛けて上げよう、などと多くの方が感じたことがあるかもしれませんが、いざその場面に直面すると、誰かが助けてあげるだろう、あるいは、喉まで出かかっていたが声を掛けられなかったという経験をお持ちの方もいらっしゃるかと思います。

 

まず、自分に「出来る」ことを見つけるためには、わざわざハ-ドルを高く設定する必要性もありません。
そして、小さな簡単な「出来る」ことの積み重ねが「自信」に繋がります。
そして、「自信」を自分のものにしていく際には、「減点法」のように、「行動」したことに対して自分で減点をしようがない、という方法も有効な方法となり得ます。

 

そこで、「自信」をつけたいという思いをお持ちの方は、1日の内に必ず行うことなどについて、小さな簡単な項目を5個ほど挙げてみて下さい。
顔を洗う、歯を磨く、あるいは、お仕事をしている方などは遅刻をしない、ということでも構いません。
このような小さな簡単な項目を行えなかったらその日は減点になりますが、このような項目で減点対象になるということはあり得ないと思うかもしれません。

 

しかし、悩みのまっただ中にいる最中などでは、このような小さな簡単な項目を行えていないというケ-スも実際には多々あります。
そして、小さな簡単な項目が心身共に自分のものになったと思う時には、別の項目に変えてみたり、あるいは、項目を6個、7個と増やしても大丈夫です。

繰り返しですが、「自信」は小さな簡単な「出来る」ことから産み出され、それを「行動」に移していくことで身になっていきます!

2017年3月24日 05:03

眠れない時の発想の転換と夢を活用した自己実現

こんにちは。
レイキ ヒ-ラ-&ヒプノセラピストの瀬川です。

 

高校や大学受験の合格発表の話題などが出ている今日この頃ですが、見事に合格を果たし、グッスリとよく眠れるようになったという方も多いかもしれません。
また、今までの勉強の日々から解放されて、命一杯遊びたい時期でもあるでしょうし、そのような遊びのことを考えていると興奮して寝付けない方ももしかしたらいらっしゃるかもしれませんね?
また逆に、希望校に入れなかったりといったことにより、将来や色々なことに不安を覚えてなかなか寝付けないという方もいらっしゃるかもしれません。

 

私は大学受験の時に2年間浪人していますので、合格をされた方の思いと同時に、残念ながら希望校に入れなかった方の思いも自分なりには理解っているつもりです。
ちなみに、私は1浪目の時は、見事に?全部不合格になりましたので、ある種の絶望的な不安やその後のしんどさというのを感じたこともありました。

また、このような最近あまり寝付けないなどは新しく社会人になる方や、引っ越しや転勤などによる環境の変化を体験する方にも多いでしょうし、日常的に感じている方もいらっしゃるかもしれません。
「春眠暁を覚えず」という言葉もあるように、春は「眠り」にまつわる季節でもありますので、今回は「眠れない時の発想の転換と夢を活用した自己実現」というテ-マをお届け致します。
なお、「眠り」というテ-マに関しては、2015年2月のTOPICS「「羊」を数えると眠れるのかな?」においても別の視点からコメントしておりますので、興味のある方は参照してみて下さい。

 

それでは、皆さんは「眠る」ということをどのように捉えているでしょうか?
私のカウンセリングやヒ-リングなどの経験から申しますと、多くの方は「眠る」ということを、

 

受け身的で何もしないこと

 

と捉えている方が多いと感じています。
勿論、これが間違っているということではありません。
そこで発想の転換を試みてみましょう。
それは、

 

「眠る」ということは一種の行為であり行動である

 

ということです。
この一種の行為であり行動であるとは、意識して道をまっすぐ歩いたり、右に曲がろうと思う時は右に曲がるという行動、また、呼吸のような無意識による行為と同じことという意味です。

道を歩いたりする時に、あなたが自分の意思に反して右に曲がってしまったり、あるいは、まっすぐ進めなくなるということは、まず起こりません。
また、あなたが一時的に自覚を持って呼吸を止めることは出来ますが、普段から意識しなくても呼吸が出来ているのはお分かりのことと思います。
そして、「眠る」ということも、このようなことと同様であり、行為であり行動でもあるということになります。
そして、「眠り」につく際に「何もしない」と受け身的になるということは、

 

青い色を思い浮かべないで下さい
あるいは、
木をイメ-ジしないで下さい

 

と言われているのと同様のことをしていることになります。
つまり、青い色を思い浮かべないようにするには、無意識下においては必ず一度は青い色を思い浮かべる作業が必要になり、木をイメ-ジしないということも同じように、一度は木をイメ-ジせざるを得ないということです。
そして、「眠り」につく時に「何もしない」と思うということは、

 

「何もしない」という行為や行動を伴う

 

ということです。
そして、この、

 

「何もしない」ということは結構難しい

 

という側面があります。
座禅や瞑想をしたことがある方は実感があることでしょうが、「無」になる、あるいは、「頭を空っぽ」にしようとすると、様々なことが湯水の如く湧き出て来るのが一般的に多いです。
そして、「眠り」につく時に「何もしない」と思うと、このように過去の出来事や将来のことなどが自然と頭や心の中に流れ出てきて、なかなか寝付かれないということに繋がっていきます。
そして、このような状況の時は、実は自然と流れ出て来ているのではなく、

 

無意識ながらも、あなたは過去の出来事や将来のことなどに意識・焦点を絞っている

 

という行為や行動をしているということです。
そして、このような状況を回避するには、

 

意識して「眠る」という行為や行動をする

 

ということです。
つまり、「眠る」という行為や行動に意識・焦点を絞るということです。
ちなみに、「眠る」前にお茶を飲んだり、本を読むなどの行為や行動は、いわゆるル-ティ-ンであり、それを行うことにより眠りやすくなるのであれば、それはそれで良いと思います。
ここまでは、「眠る」あるいは「眠りにつく」ということを、「何もしない」ということではなく、行為や行動であると捉え直すという発想の転換の一つ目です。

そして、「眠る」ということは行為や行動であると捉えると、次のような質問や経験談がよく出て来るかと思われます。
それは、

 

眠ろう眠ろうとすると、逆に頭が冴えてきて眠れなくなる

 

と・・・。
これは私にも経験がありますし、その通りであることが多いかと思います。
そこで、二つ目の発想の転換です。
あなたが「眠りたい」と思う時、その思いは、

 

あなたの望みでもあり楽しみでもある

 

ということです。
つまり、「眠る」という行為や行動は「楽しさ」を伴うということです。
そして、ここで考えてみて下さい。
あなたが自分自身にとって「楽しみ」という行為や行動を取る時、

 

あなたは何かを努力したり頑張ったりする必要性があるでしょうか?

 

行為や行動は何でも構いません。
本を読む、TVゲ-ムをする、ケ-キを食べるなど何でも大丈夫です。
このような行為や行動を取る際に、あなたの中には努力や頑張りという思いは存在していないかと思います。
つまり、「眠る」ということがあなたにとっての「楽しみ」であるならば、

 

「眠る」際に努力や頑張りは不要である

 

ということです。
多くの方は、眠らなければ明日の仕事に差し支えがある、あるいは、疲れが抜けなくなる、などのように、「眠る」ことに努力や頑張りを費やしていることがあります。
しかし、「楽しむ」ことに努力や頑張りは必要ありません。
そして、一つ目と二つ目の発想の転換をミックスすると、

 

「眠る」という行為や行動を楽しめば良い

 

ということです。
これは、あなたの意識が、

 

「眠る」という行為や行動に焦点が絞られ、なおかつ、楽しさという感情と結び付く

 

ことにより、より一層「眠る」という目標を達成しやすくなるということを意味しています。
単なる言葉遊びのように思われるかもしれませんが、なかなか寝付けないと思う時などは、「眠るという行動を楽しもう」と思って試してみて下さい。

 

そして、「眠り」についた後は、「夢」が待ってくれています。
「夢」は覚えていることもあれば、全く覚えていないこともあり、そもそも「夢」を見たことすら覚えていないことも多々あります。
そして、私達は「夢」を見ている時、そして、「夢」の中にいる時には、

 

心が解放され、本来の自分自身を取り戻している

 

という状態になっています。
そして、皆さんの中にも、「夢」を見たかどうかは覚えていないが、何となく起きたらスッキリしている、心が軽やかな感じがする、という経験をしたことはないでしょうか?
勿論、このような時には肉体的にも疲労が取れたという側面もあります。
ただ、このような時に起こっているのは、

 

「夢」の中で本来の自分自身を取り戻している時の「感情」を覚えている

 

という側面があります。
そして、本来の自分自身を取り戻しているというのは、肉体的なことのみならず、

 

あなたがこれから先、なりたい自分になった時の「感情」を先取りしている

 

という側面もあります。
このような「感情」には、ほぼポジティブな思いが伴っていることと思いますが、

 

ここで感じた「感情」を辿って日常を送っていくことで、なりたい自分への早道となる

 

というように活用することが出来ます。
そして、このような状況があると共に、「悪夢」を覚えているという経験もあることと思います。
これには、「夢」を覚えているからこそ「悪夢」と感じているという側面がありますが、ここでの「悪」と見ている光景などは、

 

あなたの中にある、ある種の思い・観念を表現したシンボル・象徴

 

ということがあります。
故に、仮に全く同じ内容の「夢」であったとしても、その意味合いは人それぞれ違ってきます。
そして、このようなシンボル・象徴としての「悪夢」を見たと感じる時は、

 

そろそろあなたの中に手放しても良い思い・観念がありますよ

 

との、潜在意識から届けられるメッセ-ジであることがあります。
なので、もしこのような「悪夢」と感じられるような「夢」を見た時は、

 

その中に出てきたシンボル・象徴に対して、自分はどう感じるか?
あるいは、
その中のシンボル・象徴に対して、自分はどのような意味付けをしているのだろうか?

 

という「感情」を探すことで、手放しても良い思い・観念を見つけ出す手掛かりとしての活用も出来ます。
また、時には知人などが亡くなる「夢」を見て、暗い思いに駆られるようなケ-スもあるかもしれません。
確かに、この世を旅立つ直前や直後に、「夢」において挨拶に来てくれたということはあり得ることかと思います。
ただ、このような「夢」における多くは、

 

その知人の内面の変化

 

という側面を、死というシンボル・象徴として表しているということもあります。
なので、その後にその知人と会った時に、

 

何か印象が変わったかな?

 

と思えるケ-スもありますし、内面の変化が外見上に表れてそのように感じるケ-スもあります。
そして、「夢」の中には何か予言めいた予知夢的なものもあるケ-スも稀にありますが、このような「夢」は、

 

今の状態(思い・観念)のままで進んで行くと、こうなる可能性がありますよ

 

と知らせてくれているケ-スもあります。
つまり、このような「夢」においては、

 

ポジティブな感情を伴うのであれば、「今」を加速させていけば良い
そして、
ネガティブな感情を伴うのであれば、「今」を変えていけば良い

 

ということに繋がっていきます。
なぜなら、絶対的な予言や、決まり切った未来は存在しないからです。

 

「眠り」に関しては人それぞれの状況や状態というのがありますが、時には「悪夢」をきっかけとして「眠るのが怖い」と思うに至るケ-スもあるかもしれません。
現在どのような状況や状態の「眠り」や「夢」であっても、あなたの中の思い・観念を変えることで、「眠り」も「夢」も変化していきます。
そして、それには努力や頑張りも不要ですし、「楽しむ」という思いを持って、「眠り」とはあなた自身がコントロ-ル出来る「行為・行動」である、と捉え直してみて下さい。

2017年3月17日 04:03

誰かに見られている?・・・という感覚の正負の側面

こんにちは。
レイキ ヒ-ラ-&ヒプノセラピストの瀬川です。

 

私の住んでいる青森県五所川原市では、今シ-ズンの積雪は少ないながらも、気温は例年通りの低い日が続き、雪も溶けては凍結へと繰り返し、朝晩の車の運転などは特に注意を要する日が多いなぁと感じている冬になっているように思います。
私は車の運転は下手ではないと勝手に思ってはいますが、上手という訳でもないことを自覚しているつもりです。
ショッピングセンタ-などへ買い物に行く時なども、駐車場が混雑している際などは、遠くても空(す)いている場所を選んで駐めたりしています。
また、ちょうど先日、車の運転中にスマフォのゲ-ムをしていたことにより、交通事故によって小学生の男の子を死亡させてしまった判決において、運転における過失が極めて悪質とのことで実刑判決が出されたとのニュ-スが流れていました。
そこで今回は「誰かに見られている?・・・という感覚の正負の側面」というテ-マで進めていきたいと思います。

 

私も車の運転中やウォ-キングなどをしていると、車の運転をしながら携帯電話をしている人をよく見かけます。
勿論、このような行為は違法でもあり、とても危険な行動でもあります。
どのような状況であろうとも、このような行動は取ってはならないものですが、その中でも特に私が気になっている、あるケ-スがあります。
それが今回のテ-マとも繋がっているのですが、それは、

 

社用車の運転中に携帯電話をしている人がとても多い

 

というケ-スです。
繰り返しですが、社用車であろうと私用車であろうと運転中の携帯電話の使用は厳禁です。
そして、私が社用車と気づくというのは、当然のことながら、

 

その車の側面などに会社名や電話番号などがメ-キングされている

 

からです。
そのような車は、言わば動く広告塔や宣伝カ-の役目も担っていることでしょう。
そして、そのような人の目につくような役目をも担っている社用車を運転しているにも関わらず、

 

運転中に携帯電話をしている意識の低さ

 

というのが、とても重要なことと感じています。
つまり、

 

誰かに見られているかも?

 

という意識の欠如と言えるかもしれません。
勿論これは誰かに見られていなければ構わないという趣旨ではありません。
例えば、男性であればどうしても我慢が出来なくなって立ち小便をしたという経験は多くの方?があるかと思います。
そして、そこにはそのような姿を見られては恥ずかしいという思いと共に、本来は立ち小便は禁止されているという意識も存在しているかと思います。
しかし、今回のケ-スのような、社用車を運転中に携帯電話を使用している人を誰かが見かけた場合に、その誰かが、

 

その会社に電話や連絡をする

 

というケ-スも少なからずあり得ることかと思います。
そして、これはクレ-ムでもなく、また、連絡をした人がクレ-マ-という訳でもありません。
危険であり、なおかつ、禁止されている行為を見かけたというケ-スにおいては、非はその運転者にあります。
そして、そのような連絡を受けた会社にとっては、そのような運転をしていた社員は、

 

会社の評判を落とす

 

という行為をしたと捉えることも多いかと思われます。
事故もなく厳重注意で済めば良いのかもしれませんが、社用車による事故の一義的責任の多くは会社が責任を負う(使用者責任や運行共用者責任など)というのが法律上の一般的な解釈でもあります。
そのような際は、基本的にはよほどの不注意がない限り、会社は社員に直接賠償請求出来るケ-スは法的にも少ないとされていますが、時にはよほど悪質と判断される場合には懲戒処分に該当してしまうケ-スもあるかもしれません。
そして、やはり一番注意を要するのが、そのような会社の評判や責任を負って社用車を運転しているにも関わらず、そのような違反の行動を取っているということは、

 

ケ-スが乗じて一人(プライベ-ト)の時には何をしているか分からなくなる

 

ということがあるということです。
万引きなども当初は出来心などで行ってしまうケ-スも多いですが、窃盗という犯罪であることに変わりはなく、やはり、ここでも、

 

誰にも見られていなければ構わない

 

という心情になってしまっていることと思われます。
そして、真実の一面としては、

 

私達の誰もが完璧な品行方正ではない

 

ということも当てはまります。
男性女性に限らず、また、大なり小なり様々なケ-スにおいて、

 

誰にも見られていなければ大丈夫だろう!?

 

との思いからしてしまった行動や経験は誰にでもあることかと思います。
赤信号を渡ることや、タバコのポイ捨てなども同じようなものかもしれません。
勿論どちらも本来はしてはならないことですが、仮にプライベ-トな空間ではしてしまいがちな行動であるとしても、例えば警察官や消防士、あるいは、誰が見ても一目である会社と分かるような、いわゆる制服を着ている際に大っぴらに赤信号を渡ったり、ポイ捨てをする人は少ないかとも思われます。

 

そして、今回のケ-スのような車の運転中というのは、自分の意識をある一点に絞っている関係から、車の外からの周囲の目ということに気づきづらいという側面もあります。
S.Light.Mにおいては「自立・自律」というテ-マの基に行っておりますが、「自立・自律」というのも自分ではなかなか気づきづらい側面があります。
なぜなら、

 

良い悪いを含めそれが当然の自分であるという思い込み

 

があるからです。
これもある意味当たり前のことであり、悪いということでもありませんが、

 

もし今行おうとしている行動を誰かが見ていたならば・・・?・・・私はどのような行動をするだろう・・・?

 

という視点を持つことが「自立・自律」の一助ともなってくれます。
そして、このような視点を持つということが、「正の側面」になってくれます。

 

では、「負の側面」とはどういったものでしょうか?
なお、最初にお断り致しますが、ここでの「負」というのは「悪」ということではありません。
これは「望まない」という意味合いです。

 

私が行っているカウンセリングにおいても、何かの出来事がキッカケになって、人目が気になる、あるいは、人から良く思われていないのでは?などの相談を受けることもあります。
勿論お話をよくお聞きすると、実際にあらぬ噂を言いふらされたり、あるいは、イジメのような形態と思われるようなケ-スもかなり多いです。
このような状況において、人目を気にし出したり、自分が悪いのでは?と思ってしまう心情も良く理解出来ます。

 

そして、もし、このような自分には預かり知らぬ状況に自分が置かれていると感じる時は、まず、次のことを覚えておいて下さい。
それは、そのようなあらぬ噂を言いふらしたり、あるいは、イジメのような言動(無視も含めて)を行っている人は、

 

その人は、自分自身が不幸だ、との強い思い込みを抱えている

 

ということです。
自分自身を不幸であると心の内で思っているが故に、そのような自分の傷心を和らげようと、周りの人を貶めようとしたり、あるいは、自分より低い人と思い込もうとしていることにより、自分を高い位置に置き、優越感に浸っていることしか出来ない状況ということです。
そして、

 

自分のしたことは、自分に返ってくる

 

という側面を思い出して下さい。
これは、仮にあなたが何かしらのしがらみなどで、そのようなあらぬ噂をふりまいている場に居合わせた際に、そのような噂をふりまいている当の本人を、

 

心の底から信頼出来るでしょうか???

 

ということです。
そして、自分に返ってくるというのは、噂をふりまいている当の本人は、

 

噂をふりまく度に、自分の信頼を無くしている

 

という形で体験しているということです。
そして、このような「望まない」人目や、見られていると感じる時は、

 

あなたは正々堂々と胸を張って生きていれば大丈夫

 

との強い思いを持って下さい。
そして、もし近隣のコミュニティ-などの場では、そのような噂をふりまいている人に出会ったら、

 

ニコッと笑顔で挨拶や会釈をする

 

ということをしてみて下さい。
あなたが自分を卑下する必要性もないですし、自分に自信を無くす必要性も全くありません。
そして、不思議なもので、あなたがこのような行動をしていると、段々相手はあなたのことを相手にしようとしなくなってきます。
というより、

 

相手はあなたのことを、そのような相手にすら出来なくなってしまう

 

ということに次第に繋がっていきます。
そこには、そのような堂々としているあなたを目にすることで、

 

その相手は、自分の心の内は不幸だ、という面を強化されている

 

と無自覚ながらも感じてくるからです。
そして、あなたの噂をいくらふりまいても、あるいは無視などの言動を取ってみても、自分の不幸を優越感に変えることはこれ以上出来ないと無自覚で気づいていくからです。
最初の慣れないうちは、そのような相手に堂々と振る舞うのは難しいと感じるかもしれませんが、行っているうちに自信もついていきますし、周囲の環境などにも変化が現れてきます。
また、「堂々とする」というのは「威圧する」という意味合いではありません。
効果的なのは「さりげなく」です。

 

そして、先ほどの車の運転のケ-スでの「誰かに見られている?」そして、噂話などの人目が気になるという「誰かに見られている?」という、正負の側面を解決する共通の方法となり得る視点とは、

 

常日頃から正々堂々と胸を張っていける言動や振る舞いを心掛ける

 

ということです。
これは、言わば、

 

自分を信頼する

 

ということです。
繰り返しですが、私達の誰もが完璧な品行方正ではありません。
あなたが出来る範囲で構いません。
そして、もう一つの視点として、「誰かに見られている?」というのは、実は、

 

あなたがあなた自身の内面を見ている

 

ということに気づくということです。
あなたが心の内から胸を張っていけるようになれば、このような「誰かに見られている?」という感覚は段々に少なくなっていきます。
しかし、時にはこの「誰かに見られている?」という感覚が生ずることもあります。
そして、これは正常なことです。
その正常という意味は、

 

自分で自分を観察している

 

という面となって現れているだけです。
なぜなら、気になるということは、

 

あなたの中に、あなた自身にとっての気になる「何か」がある

 

ということを知らせてくれているだけだからです。
このように「誰かに見られている?」という感覚は正負の両面をも兼ね備えていますが、その両方を解決する視点と、自分を見つめているという視点を心掛けていくことで変化が訪れていきます。

 

なお、行き過ぎたあらぬ噂などをふりまかれることによる実害などに対しては、名誉毀損や侮辱などのように、適切な法的手段を取るといった理性と冷静さからの判断が必要な時もありますし、このような毅然とした態度が大切になることもあります。
また、統合失調症の一つの症状と言われているような、常に監視されていると感じてしまうような場合では、専門医の指導の元に適切な診断や治療が必要なケ-スもあることはご了承下さい。

 

そして、明日は東日本大震災から6年目の日でもあります。
私が読んだ本などの中においても、この震災によりご家族や知人などを失われた方々の中には、

 

見守られている

 

ということを実感するような体験なども経ながら、少しずつでも前向きに生きていけるようになってきた、との感想を述べられている方々もとても多いです。
「誰かに見られている?」「見守られている」というのも、取りようによっては同じことを意味しているのかもしれません、、、、、
そして、多くの方が、

 

供養の意味も込め、自分は自分らしく精一杯生きていく姿を見せる

 

ということが力や励みになっているとおっしゃっています。
これも、先ほどの正負の側面を解決する視点と「源」は同じように私個人としては感じています、、、、、

2017年3月10日 03:03

ジャンケンから無意識(潜在意識)の力を感じ人間関係を知る

こんにちは。
レイキ ヒ-ラ-&ヒプノセラピストの瀬川です。

 

3月に入り、徐々に気温も高くなってきました。
青森県内ではまだ先ですが、桜や梅も咲き始める頃合いでもあります。
私が東京で行政書士をしていた時に、とても懇意にさせて頂いていた税理士の先生がおりました。
3月の確定申告が終わると、吉祥寺にある井の頭公園でのお花見に毎年誘って頂き、夜は肌寒いですが温かいものもご用意して頂いたりと、とても良い思い出になっています。
と、ここまでは特に今回のテ-マとは関係ありませんが、青森に戻って来て以来、毎年この季節になると思い出すことでもあり、皆さんにも季節毎に思い出す大切な思い出もあるかもしれませんね。

 

ところで、ここ10年ほど、毎年の大晦日にダウンタウンの「笑ってはいけない」という番組が放映されております。
そして、昨年の2016年の大晦日において、この番組内のあるコ-ナ-においてジャンケンを使ったゲ-ムが放映されておりました。
そこで今回は「ジャンケンから無意識(潜在意識)の力を感じ人間関係を知る」というテ-マでお届け致します。

 

そこで、この番組内で行われていたジャンケンのゲ-ムを簡単にご紹介致します。
まず、あなたが誰かとジャンケンをすると想定します。
そして、ここでのル-ルとしては、あなたは相手より遅れて手を出し(いわゆる後出しジャンケンです)、なおかつ、相手に負ける、ということです。
相手がパ-を出したら、その後に、あなたはグ-を出す、といった具合です。
相手より遅れて後出しが出来て、しかも、相手に負ければ良いなど、とても簡単なように思えますが・・・

では、なぜこれが無意識(潜在意識)の力を感じることに繋がっているのかを見ていきます。
まず、ジャンケンを教わる時、ほぼ100%の人が、

 

「勝つ」という、とてもシンプルな目的

 

として教わってきたことと思います。
相手がグ-であればパ-を出し、チョキであればグ-を出すといった具合にです。
そして、ジャンケンを教わった時期というのは、早ければ幼稚園や保育園などのように、

 

とても小さい頃に身に付け始める

 

ということが多くの方に当てはまることかと思います。
さらに、ジャンケンをする時というのは、例えば私が小さい頃にはジャンケンで鬼役を決める鬼ごっこであったり、あるいは、ジャンケンに負けた人が下校時に誰かのカバンをその先の電信柱まで運ぶ、などのように、幼心(おさなごころ)でありながらも、

 

とてもスリリングな状況

 

で行ってきたというケ-スが考えられます。
しかも、

 

楽しみながら

 

という側面も多分にあることと思います。
そして、ジャンケンをする機会は大人になってからは減っていくかもしれませんが、何かの折に久しぶりにする機会はあることと思います。
そして、シンプルなゲ-ムではありますが、

 

ジャンケンのやり方を忘れる

 

という経験はほとんどの方が無いことと思われます。
ここまで、ジャンケンの経緯を見てきましたが、実は、この経緯の流れは、

 

無意識(潜在意識)に素早く、かつ、しっかりと身に付く

 

という側面を持っています。
では、この経緯の流れを簡単におさらいしますと、

 

① とてもシンプル(勝つという目的)
② 小さい頃から行う(日常的に繰り返し行っている)
③ スリリングな状況(多くは損得に関連するような感情を揺さぶる)
④ 楽しみながら(勝てばご褒美的な刺激)

 

という仕組みが組み込まれています。
そして、無意識(潜在意識)にしっかりと根を張っていることにより、

 

忘れることは、ほぼ無い

 

という状態が創り出されています。
試しに、誰かとこの後出しジャンケンで「負ける」というゲ-ムをしてみて下さい。
なかなかこのゲ-ムにおいて「負ける」ということは難しいと感じるかと思います。
なぜなら、繰り返しになりますが、そもそも教わった内容というのが、

 

「勝つ」ことを目的として、一連の行動が貫かれている

と共に、

小さい頃から繰り返し行われている(刺激を伴う状況を含め)

 

からです。
勿論、個人差や慣れの程度もありますのと、反射神経が良い方などは簡単に「負ける」ということは出来るかもしれません。
そして、後出しでもゆっくり時間を掛ければ「負ける」ことは出来るでしょうが、それでは意味がありません。
なぜなら、

 

私達がとっさに起こす行動は、無意識(潜在意識)から発せられる

 

からです。
つまり、時間を掛けて分析したりといった、顕在意識が介在する余地がほとんどない状況においては、

 

本来の自分自身の行動が出やすい

 

ということです。
そして、ここでの行動というのは、

 

言葉も含まれる

 

ということです。
「売り言葉に買い言葉」という表現もありますが、つい口から出てしまった、などの苦い?経験は皆さんにもあるのではないでしょうか?
勿論、私にもそのような経験はあります。
それでは、人間関係との繋がりを次に見ていきます。
まず、誤解の無いよう最初にお断り致しますが、

 

本来は人間関係において勝ちも負けも存在しない

 

ということを頭に入れておいて下さい。
ところで、先ほどのジャンケンでは、「勝つ」というシンプルな目的、小さい頃に身に付く、スリリングな状況で繰り返し行う、などのキ-ワ-ドをご紹介しました。
人間関係においては勝ちも負けも存在しませんが、しかしながら、私達の誰もが程度の差こそありながら、

 

勝ち負けという価値判断を持っている

 

という側面は否めないであろうと思います。
良し悪しということはありませんが、このような価値判断も家庭や学校教育などにおいて、小さい頃から繰り返し教わり、また、それぞれの環境や状況に応じ違う内容を教わり、そして、自分に関連する損得という感情から無意識的に身に付いてきています。
そして、勝ち負けの定義というのも本来存在していませんが、人間関係において私達の多くは、

 

負け方を教わっていない
あるいは
負け方を知らない

 

という側面があると思われます。
例えば、ある人を説き伏せたら勝ち、あるいは、ある人の言いなりになってしまうと負け、などの価値判断を皆さんも多少は持ってはいないでしょうか?あるいは、そのように感じた経験はないでしょうか?
別にこのような価値判断を持っていることが悪い訳ではありません。
ジャンケンにおいても、例えば、グ-はパ-に負けるなどのように「負け」になるパタ-ンは教わりますが、どのようにしたら負けることが出来るのか?という「負け方」は教わっていません(勿論、「負け方」があれば「勝ち方」も存在するということなので、ここでの意味は比喩です)。

 

しかし、先ほどの「売り言葉に買い言葉」という状況の時には、私達は無意識(潜在意識)からの行動や言動をとっさに起こしがちになります。
そして、このような状況の時の人間関係というのは悪循環に陥りがちになる傾向も多々あります。
繰り返しますが、本来の人間関係において勝ちも負けも存在しませんが、では、このような人間関係における「負け方」とはどのようなものになるのでしょうか?
それは、

 

自分の思いや考えを理性と冷静さを保って伝えた後は、相手のことは放任する

 

ということです。
相手のことを放任すると聞くと、冷たいなどと感じられるかもしれませんが、

 

(意思に反して)相手のことを変えることは出来ない

 

という側面が関係しています。
つまり、あなたが思いや考えをちゃんと伝えたならば、

 

相手が変わろうが変わるまいが、相手の意思を尊重する

 

という「自分自身の心を整える」という方向に目を向けるということです。
それは、相手が自分の言うことを聞いたから自分が勝った、などの優越感を持つこととも違いますし、相手が自分の言うことを聞かないからといって自分が負けたと思う必要もないことと、そのことにより自分自身が悶々とする必要性もないということです。

そして、このようなことをポジティブな面から表現すると、相手があなたの意見を取り入れようと取り入れないにせよ、

 

そのような判断力を持っている相手の強さに目を向ける

 

ということです。
それは、あなたの意見を聞かないとおそらく相手は自分自身で困難な状況を招いてしまうと感じるような時であっても、

 

相手はそのような困難な状況から何かを学ぶことを決断している

 

とあなた自身の心を整えるということです。
そして、これは相手のやりたい放題にさせておくという意味合いではありません。
例えば、相手が誰かを傷付けようとしていたり、あるいは、薬物に手を染めようとしている時などは、必死に伝えたり説得するという行動も大切なことですし必要なことでもあります。
しかし、そのような行動をしたにも関わらず、状況が変わらない時に、

 

あなたが罪悪感を感じる必要はない

 

ということです。
そして、ここでの罪悪感というのは、根底において「相手を説き伏すことが出来なければ負け」という価値判断と結び付いていることもあります。
そして、私達が罪悪感を感じる多くのケ-スにおいては、

 

人間関係の上で感じやすい

 

ということがあります。
相手を説得することが出来ず、その相手が困難な状況に陥ってしまったのは、説得することが出来なかった「自分の責任」だと罪悪感を感じ、それが高じてくると「自己嫌悪」や「無力感」などに繋がってしまうケ-スもあります。
そして、ここまで高じてくると、そもそもの相手を説得することが出来なかったという状況を飛び越して、全ての責任を自分に負わせてしまうという、

 

自分に対するあらゆることへの自信の喪失
と同時に、
他の人への不信感を募(つの)らせる

 

ということにも繋がりかねません。
小さい頃から無意識に取り入れてきた価値判断などは、自分ではなかなか気づきづらいという面があります。
もし、何かの状況などの折に、罪悪感などを感じ過ぎてしまうような時には、あなたの中の小さい頃に取り入れた価値判断を探してみて下さい。
そして、「上手な負け方」というのを考えてみて下さい。
そして、あなたの中の価値判断を変えたいと思えた時、その瞬間から変えていくことが出来ますので・・・

2017年3月4日 02:03

TOPへ戻る

プライバシーポリシー

当サイトのご利用規約

サイトの詳細につきましては上記のご利用規約をご確認ください。

当サイトはリンクフリーではありません。
事前の連絡と許可審査が必要です。

スマートフォン、タブレットで読み取ってください

先頭へ