時間は 現実 それとも 幻想 ?

こんにちは。
レイキ ヒーラー&ヒプノセラピストの瀬川です。

 

朝晩の寒暖差も大きくなりつつある時期ですが、如何お過ごしでしょうか?
スーパーなどに買い物に行くと、秋刀魚や梨や柿なども見受けられ、季節の移り変わりを視覚や味覚でも感じられる時節になってきました。

 

ところで先日、ハリウッド俳優のモーガン・フリーマンが進行を務める「時空を超えて」という番組を観ていました。
今までも好きでよく観ていましたが、その回では「時間」を取り上げていましたので、今回はその番組の内容も一部ご紹介しながら「時間は 現実 それとも 幻想 ?」というテーマをお伝えしていきます。

 

私達が時間を認識するためには、通常はほとんどの方が時計を活用していることと思います。
また、時計と言っても体内時計や腹時計、あるいは、小学校の時に習った日時計などもあります。
そして、現在の時刻というのはイギリスのグリニッジ標準時を採用し、そこでの時刻が世界の標準時刻となっています。
言わば、私達が通常認識している時刻の誕生が起こりました。

 

海外旅行をしたことがある方は、ここで時差というものが存在?していることをご理解頂けるかと思います。
陸地で国境が接している国などでは、例えば時差が1時間とすると、国境に1歩足を踏み入れただけで、時間が1時間早くなったり遅くなったりということが起こります。

 

現在では時間の研究というのは幅広く行われていますが、古くは2,500年前の哲学者なども研究していたと言われています。
それでは、皆さんも名前は聞いたことがあると思われる二人の科学者の時間に対する説を簡単にご紹介します。

 

まず、一人目は万有引力の法則を唱えたニュートンです。
ニュートンは時間は絶対的なものであり、何ものにも変えられない不変の性質であるという説を唱えていました。
ちなみに、ニュートンと言えばリンゴが木から落ちるのを見て重力を発見したとされていますが、実際は重力はその以前からすでに周知の現象として認識されており、ニュートンが唱えたのは「リンゴは木から落ちるのに、どうして月は落ちてこないのだろう?」という考察を唱えたと言われています。

 

そして、二人目は一般相対性理論を唱えたアインシュタインです。
アインシュタインによる一般相対性理論においては、時間は相対的なものであり、起こる出来事の関係性によって作られ、変わってくるという説を唱えていました。

 

つまり、ニュートンは時間は絶対的に存在し、出来事などの関係性によっても影響を受けることのない、変わることのない性質であるという見方です。
一方のアインシュタインは時間は相対的、つまり主観的なものであり、言わば人それぞれ時間の感覚は変わり得る性質のものであるという見方をしています。

 

そして、現在の科学の世界では、アインシュタインの説が主流となっているそうです。
そこで、2010年にある実験が行われました。
アメリカの国立標準技術研究所という所において、アルミニウムイオン時計という装置を活用したものです。
このアルミニウムイオン時計というのは、世界一正確な時計で、その誤差は37億年に1秒にも満たない誤差だそうです。

 

そして、実験の内容としては、2つのアルミニウムイオン時計を正確な時刻に同期させ、一方は地面に固定し、もう一方は地面から30㎝高い所に据え置きました。
すると、高く据え置いた方の時計は、地面に固定されている時計より少し早く時間が進んだという結果が得られました。
つまり、高く据え置いた方の時計は、地球の重力から遠ざかったため、重力の影響が弱められたことにより、時間が早く進んだということです。

 

例えば、本日宇宙ステーションに向けてある宇宙飛行士が出発したとします。
滞在期間は6ケ月です。
当然地球に帰還するのは今から6ケ月後ですが、それはあくまで地球にいる人達の6ケ月であり、宇宙ステーションで過ごした宇宙飛行士にとってはそれよりも早く時間が進んでいるということです。
もしかしたら6ケ月と1日の滞在であったかもしれませんし、6ケ月と10日なのかもしれません。

 

また、極端な例えでは、重力から遠ざかることで時間が早く進むという実験結果からは、飛行機によく乗る人の方が時間が早く進んでいるということになります。
なお、時間が早く進むという意味は、老化が早く進むという意味合いではありません。

 

そして、このアインシュタインの説を採用した実験結果から、時間は一直線的に進むものではなく、場合によっては過去も未来も同時に存在することが可能なのでは?という研究にも繋がっています。
ちなみに、仮に時間が一直線的に進む性質のものとしても、その「時間の向き」というのがどうやって決められているのか?という疑問も残ります。

 

この時間の向きについても、物事がバランスを取るために、右から左に流れる時間の向きがあるならば、その正反対の左から右に流れる時間もあるのでは?あるいは、後ろから前に向かう時間があれば、前から後ろに向かう時間も存在しないとバランスが取れなくなるという説もあります。
余談ですが、以前にブラッド・ピットが出演した「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」という映画がありました。
この映画の内容は80歳で生まれ、その後は年を取るごとに若返っていくというストーリーです。
今回のテーマと直接関連しているものではないですが、興味のある方はご覧になってみると面白いかもしれません。

 

それでは、次は脳における時間の研究を少しだけご紹介します。

皆さんも年を重ねるごとに1年が経過するのが早いなぁと感じたり、あるいは、そういうお話を周りの方から聞いたことはないでしょうか?
これについてもある実験が行われています。
そして、その実験結果では、時間の流れを「10歳を1」と仮定すると、「20歳では1.4倍」「60歳では2.5倍」時間の流れが早くなるとの報告がされています。

 

そして脳の機能における実験も行われています。
その実験から、

 

脳は全ての情報を統合して処理するのに少し時間がかかる

 

との結果が得られています。
ピンとこないかもしれませんので、少し補足します。
例えば、「今」このTOPICSをお読み頂いているあなたは、まさに「今」目で文字を追い、内容を把握し理解していると感じていることと思います。
しかし、実際の脳の機能としては、

 

あなたが「今」行っていると認識されるものは、実はそれ以前の出来事である

 

という意味合いです。
つまり、このTOPICSを読んで何かを感じている瞬間に物事は起こっているのではなく、実は、そのほんの少し前に物事は既に完了しており、その物事を「今」として認識しているに過ぎないということです。
それでは、もう一度別の表現で、かつ極端に要約すると、

 

私達が「今」と認識している物事は、実は全て「過去」である

 

ということと、

 

私達が「今」と認識している物事は、実は全ては「過去」を「思い出している」という「今」である

 

という実験結果です。
勿論、その認識までの時間には個人差もあるでしょうし、実際には0.0・・・コマという秒数であると思われます。
しかし、このような脳の機能における認識の時間差というものが、統合失調症や認知症などの症状に関連しているのでは?という観点から、症状を改善させて行けるのではないかという方向の研究も行われているそうです。

 

また、パラレルワールドなどが研究対象となっている量子力学の分野では、時間は存在しないという主張をしている科学者もいます。
例えば、私達が普段何ともなしに見ているTVや映画の映像は、実際には1秒間に24コマ程度の静止画を繋げているという仕組みがあります。
子どもの頃に遊んだパラパラ漫画のようなものです。
それぞれの静止画があまりにも短い間隔で繋がるので、連続して動いているように見えるということです。

このような時間は存在しないという説の主張には、

 

あるのは「永遠の今」だけ、それが、動いている繋がっているように見える錯覚を起こしているだけ

 

という考え方があるそうです。

ここまで、今回ご紹介した番組の内容を一部抜粋してお届けしてきましたが、このような様々な説には勿論反対意見も多数あります。
例えば、物理学者などは数学や数字のみを扱う職業病的な傾向があるので現実が見えなくなっているのでは?などの意見もあるそうです。
しかし、とても大切なことは、このような「時間」に対する研究というのが、様々な意見や考え方を持っている科学者達が、研究に値するという思いを抱きながら大まじめに取り組んでいるという点です。

 

今回のTOPICSをお読みになった皆さんは「時間」というものをどのように捉えているでしょうか?
それぞれ捉え方は違うことと思います。
そして、実際の日常生活においては、私自身も同じですが、「時計」を活用して暮らしていることと思います。
普段の日常において今回のテーマのようなことに意識を向け続けるのも無理があるかと思いますし、今まで通りで構わないと思います。

ただ、

 

時間は主観的なもので時間の経過は人それぞれ異なる場面もあり得る

 

という考えについては、多くの方が体験したことがあると思いますし、納得頂ける部分もあるのではと思います。
以前のTOPICS「究極のアンチエイジング?」では映画の例えを挙げて説明していますが、

 

時間があっという間に過ぎた

 

という体験は誰にでもあることと思います。
そして、

 

妙に時間が長く感じるなぁ

 

という体験も誰にでもあることと思います。
その多くは、あっという間に過ぎる体験は「楽しさや集中」と結びついているかもしれませんし、長いと感じる体験では「興味のなさや退屈」という点と結びついているかもしれません。

 

そして、ここで皆さんのそれぞれの好きな歌を思い浮かべてみて下さい。
時間の早さや遅さというのは、表現を換えれば「テンポの違い」とも読み替えることも出来ます。
あなたの好きな歌のテンポが多少早くなったり遅くなったりした場合に、少しは違和感を感じることもあるでしょうが、好きな歌という「本質」は変わらないことと思います。
実際にカラオケなどでテンポを調整して歌う方もいらっしゃるでしょうし、映画のクライマックス場面では音楽のテンポを調整しているケースも多々あります。

 

このような捉え方をすると、私達それぞれの「人生のテンポ」というのも他の人と違って当然であり、時には早く、時には遅く感じることもあるかもしれません。
しかし、テンポがその時々の状況や場面において変わろうとも、

 

人生の本質は変わらない

 

とも言えます。
今回のテーマは現在の所、答えはありません。
時間が主観的なものであれば、皆さんそれぞれの感じ方が答えであるということと思います。
そして、楽しさや集中などの点と結びついている時間の早さは充実ということとも繋がっていると思いますが、あまりにも忙しすぎて時間があっという間に過ぎる、あるいは、時間が足りないと常日頃感じている方は、逆に5分でも良いので毎日何もしない時間を作ることを試してみて下さい。
そのような習慣が、逆に心に余裕を産み、時間をさらに効率的に活用出来るようになっていくことと思われます。

 

ちなみに余談になりますが、現在の所、光の速度は一定と解釈されていますが、光の速度が変化するならば、それは時間を超える、あるいは、時間が変化することを意味しており、時間を超えることは同時に「空間を超える」ことに繋がっていきます。
実際に光の速度の変化はあり得るとの観点から、現在宇宙を活用して実験が行われています。
興味のある方は、このような研究も追っかけてみると面白いかもしれません。

2016年9月24日 02:09

是か or 非か?・・・という人間関係

こんにちは。
レイキ ヒーラー&ヒプノセラピストの瀬川です。

 

先日、プロ野球のセ・リーグにおいては広島東洋カープが25年振りの優勝を決めました。
そして、夏の高校野球もついこの間終わったばかりと思っていたら、もうすでに、来年春の選抜出場をかけた地区予選も始まっています。
そこで、今回は野球にまつわる2つの出来事から「是か or 非か?・・・という人間関係」というテーマでお届け致します。

 

まず、1つ目の出来事は高校野球からです。
この出来事は、巨人軍、そして、ニューヨーク・ヤンキースでもプレイをした松井秀喜さんにまつわる出来事です。

 

ご存じの皆さんも多いと思われますが、当時高校生であった松井さんが甲子園に出場した時の出来事です。
松井さんは超高校級のバッターとしてとても警戒されていました。
そこで、対戦相手の明徳義塾高校は、全打席(5打席)連続敬遠、という作戦を取りました。

敬遠というのは、相手打者とは勝負をしないということです。
しかしながら、無条件で走者を出すというリスクも同時に備わっている作戦です。

 

当時の試合内容においては、チャンスの場面に松井さんの打席が巡って来ている場面もあるので、確かに勝負をしないという決断をするのも理解出来ます。
しかしながら、リスクの少ない場面においても敬遠されたということで、当時はかなりの論争が繰り広げられました。
甲子園においてもメガホンが投げ込まれたり、帰れコールが鳴り響いたりと、かなりの異様な状況でした。
この当時を振り返り、全打席敬遠を指示した監督さんは「松井に打たせると他の打者も乗ってくる・・・勝ちたいから敬遠した」とお話しています。

当時、真っ二つに割れた論争を要約すると以下の通りです。

 

「高校野球なんだから、勝利至上主義に徹し過ぎるのは良くない」
という意見と、
「敬遠はルール上認められているのだから、非難される筋合いのものではない」
という意見です。

野球に詳しくない方はピンとこないかもしれませんが、皆さんはどう感じるでしょうか・・・?

 

それでは、2つ目の出来事に進んでいきます。
この出来事はプロ野球のオールスターの試合でのことです。
オールスターというのはその年の活躍している選手がファン投票などから選出され、言わば、選ばれた選手のみが出場出来るという特別な試合です。

 

現在も大リーグで活躍中ですが、当時、オリックスで脚光を浴びていたイチロー選手が出場していました。
あと一人のアウトで試合終了という時、外野を守っていたイチロー選手がピッチャーとしてマウンドに上がることになりました。
その時の打者は奇しくも1つ目の話題に出た松井さんでした。
しかし、代打を送られ、松井さんとイチロー選手の対決は流れました。

 

実は、当時私は大学生でしたが、この試合を東京ドームで実際に見ていました。
現地の東京ドームでは、イチロー選手がピッチャーとしてアナウンスされると大歓声が起こり、オーロラビジョンにイチロー選手がマウンドに向かっていく時の満面の笑みが映し出されていました。
私の隣で見てた人が、「子どもみたいな笑顔だなぁ~」と言っていたことを覚えています。

 

イチロー選手をピッチャーとして告げたのは、当時の仰木彬監督です。
仰木監督はファンを楽しませる野球をモットーとしており、当時も色々な方法でファンを楽しませていました。
言わば、

ファンあってのプロ野球

という思いがあったことと思います。
しかし、一方の相手チームの当時の監督は野村克也監督でした。
他のチームの選手を預かる立場としては、本職でないピッチャーにぶつけられてケガをさせられないとのことで、自分のチームの投手を代打として送りました。

 

この出来事も当時大論争になりました。
野村克也監督は、オールスターというのはお祭りではなく、選ばれた選手が最高峰のプロの技術をファンに対して見せるもの、という考えを持っていたそうです。
勿論悪い意味ではないですが、言わば、

プロ野球あってのファン

という思いの方が、どちらかと言えば強めだったのかもしれません。
このTOPICSでも度々出てきますが、鶏が先か?卵が先か?に似ているかもしれません。

 

ここまで、松井さんとイチロー選手の2つの出来事を取り上げてきました。
どちらの出来事も、

 

ルールに則している

 

という共通点があります。
それでは、ルールに則しているのに、当時はなぜこれほどの大論争になったのでしょうか?
実の所、このような大論争は未だに決着がついているという性質のものではありませんし、正解というのもありません。
それが今回のテーマ「是か or 非か?」という点です。

 

そして、このようなことは私達の日常生活においても身近な所にあることがあります。
例えば、「人を傷つけても良いか?」という点では、ほとんどの方が「非」と答えるかもしれません。

しかし、人を傷つけるというのは、身体のみに限りません。
心も傷つきます。
また、何か「物理的なもの」で傷つける場合もあれば、「言葉」で傷つけている場合もあります。
パワハラやセクハラなどは、良きにつけ悪しきにつけ相手がハラスメントと思わなければ成立しないという法的な見解もある位です。
そして、このような「是か or 非か?」という答えがないケースでは、人間関係に変化がもたらされる流れになっていくこともよくあります。

 

最近では芸能人などがSNSやツイッターなどで発言したことが、様々な批判を浴びて炎上するケースもよく見受けられます。
この種の発言も「是か or 非か?」では割り切れない面を多分に含んでいます。
しかし、一点明確なのは、批判をしている人は、

 

匿名である

 

という点です。
そして、匿名ということは、

 

自分の発言の責任を回避している

 

ということです。
そして、責任を回避するということは、

 

誰かや何かに依存している

 

ということに繋がっていきます。
意見や考え方の違いで、誰かと疎遠になったり溝が出来たりすることも実際にはあることと思います。
相手の話を理解しようと努めてもそのようなことは起こり得ます。
しかし、大切なのは、

 

自分の思いも責任を持ってキチンと伝える

 

ということです。
責任を持ってというのは、特に何かをしたりすることではありません。
それは、

 

匿名ではなく自分自身として、なぜそう思うに至ったのかを伝える

 

ということです。
そして、その思いが後に変わったとしてもそれで良いのです。
思いが変わるに至った理由や出来事が何かしらあったことと思います。

 

今回のテーマのようなことは、友達関係や恋愛関係においては比較的多いケースかもしれません。
思いや考え方の違いで相手との関係性に変化が生じそうな時は、

 

適度な距離感に変化させる時かも?
あるいは、
今まで見えていなかった相手の別の面に目を向けてみようかな?
あるいは、
相手と私との共通点はどこにあるのかな?

 

などを考慮に入れてみて下さい。
考慮に入れて考えてみても距離感が大きくなる人はいることと思います。
実際にその後は会わなくなる場合もあるかもしれません。
しかし、考えてみることで、その先の将来にまた距離感が縮まることもあれば、新たな友達や好意を持つ人と出会える可能性も生まれてきます。

 

自分の思いを伝えない、思いを封じ込めていると、相手のなすがままにコントロールされてしまうケースもあります。
思いを伝えた後の変化を怖れず、匿名ではなく、自分自身として発言するように心に留め置いてみて下さい。
なぜなら、他の誰の言葉でもなく、

 

他ならぬあなたの言葉

 

に勇気づけられる人がきっとあなたの周りにもいらっしゃるかと思います。

2016年9月14日 05:09

カウンセリングの郷に入れば郷に従う

こんにちは。
レイキ ヒーラー&ヒプノセラピストの瀬川です。

 

先日あるTV番組において、青森県弘前市にある「鬼沢地区」の特集が放映されていました。
そこで今回は「カウンセリングの郷に入れば郷に従う」というテーマで進めて参ります。

ところで、皆さんは「鬼」という言葉からどのような連想が浮かぶでしょうか?
もしかしたら多くの方は「節分・豆まき」という行事が思い浮かぶかもしれません。

 

「節分・豆まき」の由来には幾つかありますが、そのうちの一つに「追儺(ついな)の鬼」というのがあります。
「追儺」とは、この世にある様々な災いや不満を「鬼」に対して石を投げつけることで邪鬼を払う平安時代の儀式と言われています。
そして、その際に石を投げつけられる「鬼」の役を演じていたのは、当時の力の弱い人々であったそうです。
力の弱いというのは、貧困や階級などの違いという意味で、現在における差別と同種のようなものです。

 

そして、今回のTV放映されていた岩木山の麓にある鬼沢地区には、数々の鬼伝説があるそうです。
大きな岩に付いている鬼の足跡や、水が低い所から高い所に流れる(流れているように見える)鬼神堰・逆さ堰などがあるそうです。
この堰の建設については一切の資料が残っていないそうですが、当時から鬼が造ったと語り継がれており、この堰のお陰で豊作になり、また現在もその近辺の集落の方々にとっては大事な農業用水として活用されているとのことです。

 

このように、鬼が人々に智恵をもたらす、また、人々に恵みをもたらすということで、この鬼沢地区には「鬼神社」として「鬼」が奉られています。
そして、この「鬼神社」の「鬼」という字には、一番上の点が賦されていない字があてがわれています。
それは、一番上の点を取ることで、角がなくなり「鬼」が「神」に変わるという思いが込められているそうです。

 

そして、「鬼」を「神」として奉っているため、この地区では「節分・豆まき」という風習がありません。
「鬼は外」「福は内」というのは、「神」を「外」に追い出してしまうことと考えられているためです。
ちなみに「鬼」という字は、「魔」でも使われていますが、「魂」あるいは「魅力」という字でも使われています。

 

このように「鬼」は怖い・恐ろしい存在と考えている方々もいれば、一方では善良で恵みをもたらす存在として受け入れている方々もおります。
そして、これが今回のテーマ「カウンセリングの郷に入れば郷に従う」という所に繋がっていきます。
「郷に入れば郷に従う」という意味は少し高圧的な側面も感じるかもしれませんが、文化や風習などの違いを否定せず、まずはそのままを受け入れてみて下さい、という意味合いでも解釈されます。
勿論、例えば人を傷つけることを良しとする風習などが存在するとすれば、そのようなものは受け入れ難いというものもありますので、そこは皆さんの良識において考えて判断して下さい。

 

では、何故このような「郷に入れば郷に従う」ということがカウンセリングに繋がるのでしょうか?
それは、

 

セラピストは、まずは、クライアントの世界観を受け入れることから始まる

 

という点です。
例えば、今回の「鬼」をテーマとしてクライアントとセラピストの会話を考えてみましょう。

①クライアント:「鬼は私にとって大切な存在なのです」
①セラピスト:「でも、世間の多くの人が鬼は怖い存在と思っているのですよ・・・。それを大切な存在というのは・・・?。」

②クライアント:「鬼は私にとって大切な存在なのです」
②セラピスト:「そんな訳はありません。あなたは節分などの風習を知らないのですか・・・?鬼とはそういう存在なのですよ!」

 

上記の様な会話が仮にやりとりされたとしましょう。
上記①②において、セラピストの発言の後に、クライアントは自分の本当の気持ちや思いを伝えてくれるようになるでしょうか?

 

おそらく、そうはならないと思います。
ある意味、セラピストがクライアントの世界観を全否定してしまっているからです。
勿論、ここでの「世界観を受け入れる」とは、セラピストがその世界観を完全に理解したり、あるいは、それに同意を与えるという性質のものではありません。
セラピストも人間ですので、それぞれの世界観を持っていますし、それで良いと思います。

 

しかし、クライアントは現に何かしらの悩みや問題を少しでも解決に向かうよう、セラピストに手助けを求め伝えに来ています。
そのような意味で、セラピストはクライアントの世界観をまずは受け入れるということが大切になろうかと思います。
つまり、平たく言えば、クライアントのお話に真摯に耳を傾けるとも言えます。

 

そして、以外に多いのですが、セラピストに相談したら怒られた、などのお話をクライアントから聞かされることもあります。
クライアントはとても心の機微に敏感な状況で相談に来ているので、ある意味セラピストの何気ない?言葉に過度に反応しているケースも中にはあるかもしれません。
しかし、やはり一番の理由は、

 

セラピストが自分の世界観を絶対的に正しいと思い込んでいる

 

という所にあるかと思います。
これは所謂セラピスト側の「傲慢」という姿勢に繋がってしまいます。

 

私達の誰もがそれぞれ独自の世界観を持っています。
そして、その世界観が全く同じということはありません。
もし、そのようなことがあれば、一種の「洗脳(マインドコントロール)」状態に陥っているのかもしれません。

 

時には、クライアントは強固に握りしめているその世界観から生きづらさを感じていることもあります。
しかし、それは裏を返せば、

 

クライアントはその一点(世界観)に集中する力がある

 

というポジティブな見方も出来ます。
セラピストはクライアントが望むのであれば、そのような世界観に新たな世界観を加味してみたり、また、そのような世界観を別の角度から見たらどうなるのか?などの「提案」をしていくことがよくあります。
そして、これは決して押し付けになってはいけません。
もし、セラピストの押し付けになってしまうと、

 

郷に入れば郷に従う

 

という最初のスタート地点からやり直しになってしまうからです。
そして、クライアントがセラピストの押し付けを無条件に全てを受け入れ始めると、

 

セラピストとクライアントとの共依存関係が始まる

 

ということに繋がっていきかねません。
つまり、クライアントはセラピストの話すことが絶対的だと思い込み、それに対してセラピストがクライアントに優越感を持ち始めるという状態です。

 

今回はクライアントとセラピストとの関係性を例えとして挙げましたが、このようなことは私達の誰もが日常的に行っている会話と一緒です。
あなたも誰かから相談されることもよくあるかもしれません。
もしよろしければ、今回のテーマも参考にしてみながら、会話を楽しんでみて下さい。
なお、繰り返しですが、世界観を受け入れると言っても、それが相手自身や、相手の周りの人々を傷つけたり、多大な害をなすような世界観の場合には、あなたの良識に従って毅然としたアドバイスも必要です。

 

そして、先日の東北への台風上陸において、特に岩手県や北海道では多くの災害が発生し、死傷者も出てしまいました。
災害に遭われた方々へお見舞い申し上げますと共に、お亡くなりになられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

2016年9月6日 03:09

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