優生学思想と魂の原点

こんにちは。
レイキ ヒーラー&ヒプノセラピストの瀬川です。

 

先日、障がい者の施設において多数の人命が奪われ、また、多数の負傷者が被害に巻き込まれるという残忍な事件が起こってしまいました。
被害に遭われた方々のご冥福をお祈りしますと共に、負傷された方々の一刻も早い快復を心より願っております。
マスコミなどでは「戦後最悪」という人数の多寡の方に目を奪われるような報道をしている所もありますが、当然のことながら人数の多さが問題という訳ではありません。
例え、お一人の人命であっても、残念ながら日常的に起こっている事件という性質では同様かもしれません。

 

今回の事件を起こした犯人は、障がい者は生きている価値が無い、税金の無駄遣いだ、などと供述しているなどの報道もありますが、そのような中で「優生学思想」というテーマを取り上げて報道している所もあります。

そこで、今回は「優生学思想と魂の原点」というテーマをお伝えしたいと思います。

 

「優生学思想」とは、代表例としては、かつてナチスにより行われた人種選別政策とも言われているように、最終的には大規模殺戮にまで発展し、多くの人命が奪われた出来事でもあり、また、現在も多くの人種差別や偏見などの温床になっているとも言われています。
この思想をシンプルに表現すると、

 

価値のある者のみが生きるべきである
そして、それ以外の者は生きる価値がない、あるいは、生きる価値のある者に奉仕すべきである

 

とも言えます。
当然のことながら、そもそも何を持って生きる価値がある者と生きる価値がない者との間の線引きなどは存在しません。
このような線引きは、自分(だけ)は生きる価値があるという自分本位から生み出された判断に過ぎません。

 

このような思想は先のナチスの例における反省と二度と同じことを繰り返してはならないとの教訓から、戦後辺りから改善されてきた傾向もあることと思います。
しかし、近頃の風潮を見ると、世界各国、そして、日本国内でもこのような思想が再び源流となっているのでは?と思われる事柄が増えてきているようにも感じられます。

 

今回のような過激な表現、そして行動にまで及んでいなくとも、政治家の発言やTVコメンテーターなどの発言の中にも、同じような匂いを感じることが増えてきているように感じられます。
あくまで、私個人の感じ方ではありますが・・・・・

 

現在行われているアメリカの大統領選挙においても「アメリカが世界最強だ」などと連呼されてもいます。
また、あくまでポジティブな方向性で言っているのかもしれませんが、都知事選挙においても「東京が日本を引っ張る」「東京を世界一の都市にする」「東京は特別な都市だ」などと同じく連呼されています。

優生学思想の根底には、

 

自分(達)は選ばれた特別な存在である

 

という源流が流れています。
そして、繰り返しになりますが「選ばれた」「特別な」という線引きは自分本位の判断から生み出されています。
選挙というある意味特殊な環境であるのかもしれませんが、このような「特別な」という根底には同じような源流が流れているようにも私には思えます。

このような「特別な」という思想や考えは、

 

他者との比較の中でしか生まれない

 

そして、このTOPICSでも何度かお伝えしていますが、

 

他者との比較の中では幸せは見い出せない

 

ということに繋がっています。
「自分は特別だ」と思っているということは、その人は実は、

 

自分で自分の価値を見い出せていない

 

とも言えます。
そして、このような理解の元では、これから先も永遠に他者との比較の中でしか幸せを見つけられないということになりかねません。
そして、このような比較には、自分が優秀と思っていることに加え、自分が劣っていると感じることも含まれます。

 

必要以上に他者に媚びへつらうという行動も、自分はある人より劣っていて、その劣っていると感じている側面を、自分より強いと思われている人に埋めて貰っているということになっているのかもしれません。
そして、強い側が弱い側を従わせるという「共依存」の関係が出来上がってしまいます。

 

また、懸命にご病気などに取り組んでいる方の中には、家族などに迷惑を掛けてしまって・・・といった負い目などを感じてしまう方もいらっしゃいます。
そのような状況の時に、ご自身の中で私は生きる価値が無い、あるいは、周りの方々(これは社会や医療制度を含めてですが)が病気で働けないのだからこれ以上生きる価値が無い、などと判断するような状況に至ってしまうことがあれば、それは心身共に健全な社会と言えるのでしょうか?
そして、深い議論もなされないままの、表層だけの安易な安楽死議論に繋がっていく可能性もあるかもしれません。

 

なお、誤解の無きように繰り返しますが、人には皆それぞれの個性があります。
そして、皆それぞれが多くの長所と短所を兼ね備えています。
他の人より多くの長所がある人もいるでしょうし、長所の中でもより伸びている長所もあることと思います。
この「より伸びている」という点について「特別や優秀」と表現されるケースもあるかもしれません。

 

もし、そのような意味であるならばドンドン自分のためや他の人のためにその長所を活用して、さらに伸ばしていくことは素晴らしいことと思います。
また、ある意味肉体的に強い人が、体の不自由な人の手助けをするというのは「従わせる」ということとは違います。
このような出来ないことを手助けをするというのは当たり前のことですし、それに留まらずお互いをより理解し合うという関係性に発展させていくことも出来ます。

 

今回のテーマにおいては「優生学思想」というのを取り上げましたが、「選ばれた」「特別な」と思えてしまうような時には、その裏側には「他者との比較」という源流が流れています。
そして、ここでの「他者との比較」というのは「個性の違いを尊重する」という思いとは似て非なるものです。
このような「選ばれた」「特別な」という言葉は耳障りの良い響きがあると共に、どこか道を外れた方向性に誘う性質も含まれているかもしれません。

 

私がカウンセリングなどを行っている中にも、「(他の人)より少ない」という点を「劣っている」という見方をしている方も多い傾向もあります。
また、傾向としては少ないですが、「(他の人)より多い」という点で「苛まれる不安」や「円滑に物事が行き過ぎていることに対する不安」などをお持ちの方もいらっしゃいます。
このような点はお金などを当てはめてみるとより見えてくることがあるかと思います。

 

そして、今回の様な事件を少しでも減らし防ぐために出来ることはあるのでしょうか?
行政・司法・医療などの社会的見地からも出来ることはあることでしょう。
そして、そのようなことも同時に必要なこととも思います。

ここから先はあくまで私個人の見解ですが、このような事件を減らしていくためには、

 

「魂の原点」とも言うべき視点を持つ

 

ということも少なからず役立つのでは?と考えています。
それは、

 

私達は「なぜ」生まれてくるのか?

 

を考えることでもあり、ヒプノセラピー(催眠療法)の「前世療法」などを行っている私の立場からすると、

 

なぜ立場や役割を変え、私達は「何度も」生まれ変わってくるのか?

 

を考えるという視点です。
このような視点は魂の存在というものを前提としていますが、それを是や非で判断するものではありません。
また、同様に難解な哲学的なことや宗教的な視点を持つということでもありませんし、オカルトめいた見方という性質のものでもありません。
言わば、

 

自分の意識・見方を少し拡大する

 

という視点です。
例えばあくまで私の個人的見解ですが、

 

この世で全てが無になるのであれば、人間というのはとうの昔に存在すら無くなっているのでは?

 

と思えてしまうことがあります。
もし、「今」が全てで「この世が全て」であれば、お互いに略奪などを続けることにより、言わば自分で自分の首を絞めるかの如く、遙か昔に人間という存在は終わっているのでは?ということです。
なぜなら、「今」と「この世」しかないのであれば、「今」そして「この世」で出来うる限りの権力や財産を欲しようと考えてもおかしくはないのかもしれません。
しかし、現実には全てがそうではありません。

 

そうはさせない何かしらの性質が人間にはあるのでは?

 

という「性質」というのが「魂の原点」という視点です。
目的があってこの世に生まれ、そして、これからも何度も生まれ変わってくるかもしれないという視点の基において、殺人を犯す、人を傷つける、あるいは、自分は特別だ、などの考えや行動は果たして人間として生まれてきた意味の中に含まれているのでしょうか?
同じようなことは、戦争における殺人は殺人ではない、と言われたりもしますが、これも本当のことなのでしょうか?
人それぞれ色々な見方や考え方があって然るべきですし、他にも考えられる具体例はたくさんあると思います。

 

私の家族や友人などが今回の事件のように巻き込まれていたら、私自身ももしかしたら犯人を殺したい、と思うに至るかもしれません。
しかし、そのようなことを実行はさせない何かも私自身の中にあると自分では感じています。
それは、そのような復讐をしても解決にはならないということと、殺人を犯した犯人は、仮にその人がこの世を去った後でも罪を償い続けていかなければならない「生」が待ち構えているという視点かもしれません。

 

魂の存在を信じるか信じないかも皆さんの自由です。
信じることを強制されるような事柄でもありません。
ただ、繰り返されている現状を思う時に、そこに一石を投じる?ような視点も取り入れてみては如何でしょうか、、、、、

 

そして、案の定というか、早くもニュースなどでは危険な思想を持っている人は予め監視や監禁が必要では?あるいは、どんな手段を使ってでも防ぐべきでは?そのような人の体内にGPSの装置を埋め込んでは?などの論調が出回っています。
今回の事件のような思想や無差別テロのようなケースでは別に考慮に入れる要素も多々あることと思いますが、単に危険な思想?なるもの全てを予め取り締まるというのは、その時々の社会状況などによって、この危険な思想というだけの定義では如何様にでも操作・判断されてしまうという別の危険性も伴っています。
70数年前に戦争を体験された方々は、そのような危険性について身をもって体験されていることと思います。
そうはならないためにも、今一度「冷静さ」を取り戻すことも必要かもしれません、、、、、

 

また、ここから先は余談ですが、今回の事件に際して、知的障がい者の団体が、障がい者であろうとなかろうと、一つ一つの命を大切にして尊重して欲しい、との旨の声明を出されていました。
「至極当然」のことだと思われますが、それでもわざわざ声明を出して訴えていかなければ変わっていかないとの危機感などを感じられていることであろうと思われます。

 

そして、現在ポケモンGOがとても流行っているようです。
私は行っていませんが、世間では賛否両論もある模様です。
私個人としては、娯楽の範疇として、他の人や施設などの迷惑にならないよう、節度を持って楽しむのであれば良いと思います。
しかし、車の運転中や歩きスマフォ、あるいは勝手に私有地に入り込むなどのケースもあり事故や検挙が多発しているそうです。
先の知的障害者の団体の声明ではないですが、「至極当然」のことを指摘されなければ気づかないのか?あるいは、気づいていても守れないのか?
どちらかは分かりませんが、ゲームに興じることで自分がケガをしたり、他の人の迷惑になるようなことをする必要性はそもそもありません。
もし、ゲームを行っている方は節度を持って楽しんで下さい。
そして、その姿を小さい子どもはよく見ています。
どうぞ「分別」のある姿勢を大人の方々は見せてあげて下さい、、、、、

2016年7月29日 03:07

目標&原点

こんにちは。
レイキ ヒーラー&ヒプノセラピストの瀬川です。

 

お陰様を持ちまして、先日の7月21日を持ってS.Light.Mも開設してから3年目を迎える運びとなりました。
クライアントの皆様方、各種認定講座やセミナーをご受講頂いた皆様方に改めて御礼申し上げます。

 

そして、同日には高校野球の夏の青森県大会決勝戦も行われました。
今年は春の選抜に八戸学院光星と青森山田が、青森県としては史上初の2校同時出場も果たしました。
その後の春の県大会では八戸西が優勝するなど、この夏の県大会ではどこの学校が甲子園に出場してもおかしくないような激戦となりました。
優勝された学校は心から甲子園という舞台を楽しんで頂ければと思います。

そこで、今回のテーマ「目標&原点」を進めていきたいと思います。

 

野球に携わる人にとっては、「甲子園」は聖地とも言われているように、小学・中学・高校球児にとって大いなる「目標」になっていることと思われます。
そして、全ての人が甲子園に出場出来ていた訳ではありませんが、その後プロ野球や大学・社会人野球などに進んだ方にとっては甲子園は「原点」とも呼べる場所であるかもしれません。

 

「目標」とは、まさにそれに向かって精進をしていく「導き手」の役目を果たしています。
そして、それと同時に「原点」とは、その後の道を歩み続けていく途上で、何かの迷いなどが生じた際に、初心に帰るとも言うような、現状を打破する「導き手」の役目も果たしています。

 

「目標&原点」とは、小学・中学・高校球児にとっては甲子園はまさに「目標」となり得ますが、仮に甲子園に出場出来なかったとしても、その「目標」に向かって精進し続けた努力や頑張りというのは、その後の人生を送っていく上での「原点」ともなり得ます。

 

このような「目標&原点」というのは、表現を換えれば「過去&未来」というのと、とても似ている点があります。
私達は「未来という目標」に向かって歩み続けますし、歩み続けてきた「今」という途上において迷いなどが生じた際は、自らを顧みる際に「過去という原点」を活用したりします。
そして、またさらに「今」から「未来という目標」に向かって歩み続けます・・・・・

 

このように歩みを続けていく中で、いつしか「今」が「過去」になり、思い描いた「未来」も「過去」になっていきます。
つまり、

 

過去も未来も目標であり原点という共通の役目を果たしている

 

とも言えます。
そして、その役目というのが、

 

導き手である

 

ということです。
私達は一直線上の時間軸の中で物事を考える習慣があります。
このような考えからは「過去」が導き手というのは理解し難いという思いも分かります。

 

カウンセリングなどを行っていると、多くの方が「過去に生き続けている」と思うことがよくあります。
勿論悪いことではありませんし、私も同じような点もあります。
しかし、

 

「過去」に変化を起こすよりは、「今」に変化を起こす方が簡単である

 

という所がポイントになっています。
「過去」の出来事を変えることは出来ません。
しかし、「過去」の出来事の意味付けを変えることは出来ます。
そして、それが可能となるのは「今」という時点です。

 

そして、「今」に変化を起こすことにより、より良き「未来」への扉が開かれていきます。
そして、そのより良き「未来」も、さらにその先にある「今」にとっては「過去」の出来事になっていきます。
このように、「過去」と「未来」が表裏一体であるということは、「目標」と「原点」も表裏一体であるということです。

 

私がカウンセリングやセラピー・ヒーリングを行うに際して心掛けていることも同じ点にあります。
クライアントの方々は確かに「過去」や「今」という時点において悩みなどを抱えていらっしゃいます。
そして、それと同時に「未来」に対しての不安なども同時に抱えていることも多いです。

 

ここまで歩み続けてきた人生において、そのような悩みが苦痛を伴うものであったり、希望が持てない状況であったこともよく理解出来ます。
そこで私は「目標&原点」「過去&未来」という視点を取り入れています。
それは、

 

悩みが解消した後の人生をどのように送っていきたいのか?

 

を一緒に考え、そして、それを実現出来るよう同じく一緒に考えていくということです。
勿論「今」抱えている悩みを解消出来るよう色々なアドバイスや手法も同時に行っていきます。
しかし、多少不適切な表現に聞こえるかもしれませんが、これまで辛さや苦痛を伴っていたかもしれない

 

「今」の悩みを解消するだけではもったいない

 

という視点を持って取り組んでいきます。
つまり、

 

「今」という悩みを、より良き「未来」へ向かう通過点・チェックポイントにしてしまう

 

ということです。
「今」という悩みを解消することを「目標」としてしまうと、それを達成するのに時間が掛かってしまったり、とても努力を要すると思いがちになってしまう傾向もあります。
そして何より、

 

その時が来ないと実感出来ない(「目標」を達成して初めて実感出来る)

 

ということになってしまいます。
人は自分の行っていることに手応えや何かしらの実感がないと、歩み続けることが億劫に思えてしまうことも多々あります。
そして、一生懸命変化を起こそうと努力を続けていきますが、結果が元に戻るだけであればもったいないという趣旨です。
そこで、

 

簡単な「目標」をクリアし、その都度その「目標」を「原点」としていく

 

ということは実感を伴いやすく、その後も継続していける希望へと繋がっていきます。
そして、これを繰り返していくうちに、「目標」と「原点」の境目が無くなっていき、より「大きな目標かつ原点」が見えやすくなっていきます。

 

この「大きな目標」とは、先の球児にとっては、「未来」における甲子園かもしれないですしプロ野球選手かもしれません。
人それぞれ違うことと思います。
しかし、

 

野球を始めた時

 

という「大きな原点」というのは「過去」の思いが出発点となっています。
この「原点」はその後どのような野球人生を歩もうと変わることはないことでしょう。
どのような野球人生、あるいは、それ以外の人生を歩もうとその人にとっての「導き手」の役目をいつでも果たしてくれています。

そして、このような「大きな原点」とは、

 

私達はこの人生で何を成し遂げようと思って産まれてきたのか?

 

という点と繋がっていきます。
このように大局的な視点を持つことで、日々起こる様々な出来事を「クリア出来る目標」に変えていくことが出来ます。
なぜなら、あなたはすでに「大きな目標かつ原点」をしっかりと心の内に持っているからです。

 

ヒプノセラピー(催眠療法)における「前世療法」においても同じような視点が含まれています。
それは、今回の人生の「大きな目標」に向かって精進していく中で、まだ見ぬその先の人生(未来世・来世)においては、今回の人生が「大きな原点」となるという視点です。
そして、当然のことながら前世という過去の人生を原点として活用し、今の人生に応用し役立てていきます。

 

「目標」に向かって歩み続けていると、不思議と「新たな目標」が見えてきます。
そして、以前の目標が達成出来ていなくとも、新たな目標に向かって歩み続けていると、以前の目標が原点となり「新たな導き手」になっていくことも多々あります。
どうぞ、安心して歩み続けて下さい。

 

今回のテーマは時間軸や表裏一体という側面が含まれていて抽象的で分かり辛かったかもしれませんが、人生の全てが理路整然と説明がつくものでもありません。
時には、漠然とした曖昧模糊な中に大切なことが秘められていることもあります。
そして、今回のテーマのような漠然としたものを捉えてみようと試みる時、あなたの中の素晴らしい想像力が手を貸してくれます。
もし今現在何かしらの悩みなどがある場合には、その悩みの解消を「目標」とするのみならず、その先の「より良き未来」を同時に思い描いて、「今」の悩みを通過点として捉えてみて下さい。

2016年7月22日 02:07

映画インデペンデンス・デイからの想像力を補うとは・・・

こんにちは。
レイキ ヒーラー&ヒプノセラピストの瀬川です。

 

青森県内は梅雨時にも関わらず、あまり雨も降らず気温が高い状況が続いていますが、体調管理の方は大丈夫でしょうか?
元々青森県は年間の雨の量は多いですが、これは冬場が含まれていることで高くなっており、梅雨時の雨の量は全国と比較しても少ない傾向があります。
その一方で九州や西日本では豪雨の状況もあり、また、九州では地震の影響も残っていることでしょうから、どうぞお気を付け下さい。

 

ところで、先日「インデペンデンス・デイ:リサージェンス」という映画を観てきました。
そこで、今回は「映画インデペンデンス・デイからの想像力を補うとは・・・」というテーマでお伝えしていきます。
私はSF映画は好きでよく観ていますが、「アルマゲドン」「ザ・コア」「アイ・アム・レジェンド」などのように、サバイバルと一緒に描かれている映画の方がより好きな傾向もあります。
何故か?は分かりませんが、、、、、

 

この映画については前作を知っている方や、あるいは前作を観ていない方でも結末を語っても問題ない内容ですので簡単にご紹介します。
内容は至ってシンプルです。
エイリアンに襲われた地球が人類絶滅の危機を迎え、それを乗り越え克服するという内容です。
大ざっぱに言うと、今回の映画の内容も同様です。

 

映画の舞台背景も、前作の公開の1996年から20年後の世界です。
前作において倒したエイリアンの知識などを活用し、重力を自在に操れる技術を習得したことにより、人類は月まで出向いて開発を続け、そして、その知識を更なる地球防衛にも活用していました。
そのような中での再度のエイリアンの侵略です・・・・・

 

ところで、前作においても今作においても、人類絶滅の危機に際して、人種・国境・文化・宗教などを超えて人類が「一致」して危機を乗り越えようというのが「表」のテーマとなっています。
それはこの映画のセリフの内容からも明らかです。
勿論アメリカ映画ですので、そのような際のリーダーは強いアメリカが引っ張るという描かれ方がなされていますが、、、それはひとまず置いておきます。

 

私は前作を観た時は大学生でしたが、今作を観てもこの映画の「裏?」のテーマというのは同様に感じました。
それは、

 

人間は「危機」に瀕しないと本当に「一致」出来ないのか?

 

というテーマです。
そして、映画においてある意味では主人公でもあるエイリアンなど、

 

何か共通の「敵」が現れないと「一致」出来ないのか?

 

とも表現出来ます。
前回のエイリアンの侵略から20年を掛けて防衛力を増強してきましたが、物の見事に突破・破壊されてしまいます。
これは映画の前段で描かれていますし、ある種当然の設定なのでこれもまだ映画を観ていない方にとっても特段問題にはならないことと思います。
そして、私が感じたもう一つの「裏?」テーマですが、それは、前回の侵略時には「一致」出来たにも関わらず、

 

その間から今迄、更なる「一致」を試みることを続行し、実行していたのか?

 

という点です。
そして、もしそのような「一致」の試みが出来ていなかったとすると、その理由は何なのか?という所もポイントになっています。
それは、

 

怖れ

 

です。
映画を観ると気づく方もいるかと思いますが、色々な側面からもこのような怖れが描かれています。
怖れは私達の誰もが持っている感情であり、おそらく、私達の行動に最も影響力を与えている感情であるかもしれません。
そして、怖れの克服、また、「一致」という試みは、

 

本来は「危機」や「敵」を必要とするものではない

 

という点もポイントかもしれません。
なぜならば、

 

私達には想像力が備わっている

 

からです。
かと言って、四六時中想像力をフル活用する必要性もありません。
その時々、所々において、

 

想像力を補う

 

ということと、

 

あなたの心が感じ入る

 

という時に想像力を補ってみれば「一致」という点においても、何かの変化が加速されていくかもしれません、、、、、

 

そして、日本においては5年前に東日本大震災を経験しました。
勿論、それ以前にも、また現在においても、規模の違いは様々あるにせよ、自然災害などは起こっています。
東日本大震災の時には「絆」という言葉がよく叫ばれていました。
「絆」と「一致」はある意味、同意義にも取ることが出来ます。
果たして、今回の映画から見られるように、現在の状況は如何なのでしょうか、、、、、?

 

そして、関連の話題から一つのニュースをご紹介します。
既にご存じの方もいるかもしれませんが、先頃までの参議院選挙のニュースに紛れて?小さく、また、ごく一部でしか報道されていませんでしたが、環境省が福島の原発事故から発生した放射能で汚染された土を公共事業において再利用する方針を決定したというものです。

 

その内容は、現在の原子炉等規制法での廃材等の再利用基準は放射性セシウムが100ベクレル/㎏以下であれば可能とされていますが、これをこれから道路などを作る際の公共事業においては8,000ベクレル/㎏以下であれば再利用を可能とする方針です。
盛り土をしたりコンクリートで覆ったり、また、現在の土壌を上に持っていき、その下の土壌に利用する、あるいは、再利用基準は法律によって趣旨が違うので大丈夫だ、などの意見?も出されているようです、、、、、

 

しかし、現在のように頻繁に起こっている土砂災害や地震などを考慮すると本当に安全なのでしょうか?
土砂災害で道路が陥没したり流されたりしている光景は残念ながらよく目にする状況にもなっています。
河川の氾濫による堤防の決壊もありました。
そのような状況で、放射能に汚染された土が流されてしまったらどうするのでしょうか?
この汚染された土が100ベクレル/㎏以下になるまでには、170年はかかる、と言われています。
170年も安全に保つ道路など存在するのでしょうか?

 

福島県に全てを背負わせることは当然出来ません。
しかし、このような危険性が指摘されている汚染された土を全国の公共事業に活用するというのは本当に良いのでしょうか?
もしかしたら、皆さんが毎日通勤や通学、あるいは買い物で通っている道路に使われるかもしれません。
あるいは、皆さんのお家の前の道路に使われるかもしれません。

 

これは、原発再稼働や存在の是非という問題ではありません。
想像力を補うことで色々な危険性が回避出来るということです。
にも関わらずこのような方針を決定したということは、想像力が「補えて」いないのか、、、想像力が「欠如」しているのか、、、それ以外に「何か理由」があるのか、、、色々考えてみて下さい。

 

そして、先の参議院選挙では、青森県は見事?に最下位を脱出しました!
前回が最低投票率ということもあるのでしょうが、今回は投票の伸び率は全国1位とのことです。
色々な関係者の皆さんが何とか投票率を上げようとの思いから、期日前投票における様々な工夫や智恵を出し合ったことも大いに実を結んでいることと思われますし、有権者の側においても、今のままでいいのかな?何かが変われるのでは?などのように想像力が補われ、投票という行動に結び付いた結果かもしれません。
選挙はギャンブルではありませんので、投票した候補者が当選した、あるいは落選したという点にのみ捕らわれることなく、ここから先は両者の「一致」も見い出せるような、より良い社会になっていければ素敵なことかもしれません。
そのためにも、今回の映画からも見て取れるように、「継続は力なり」・・・かもしれません。

2016年7月15日 01:07

偽りの記憶

こんにちは。
レイキ ヒーラー&ヒプノセラピストの瀬川です。

 

今回は、ヒプノセラピー(催眠療法)における前世療法や年齢退行療法などでよく議論の種となる「偽りの記憶」というテーマをお届け致します。
偽りの記憶とは文字通り、実際に起こった事実とは違うが、本人にとってはまさに真実とも言える記憶という意味です。

 

偽りの記憶が作り出されるケースは色々ありますが、一般的に多いのは子ども時代の記憶です。
では、一つのお話に沿って進めていきます。

ある所における、お母さんと子どもの会話です。
事実としては、実際に食べた夕食は「コロッケ」であったという所が出発点となります。

<夕食の翌日>
お母さん:「昨日の夕食は美味しかった?」
子ども:「うん、美味しかったよ!」
お母さん:「昨日の夕食は何を食べたんだっけ?」
子ども:「う~ん、忘れちゃった!」
お母さん:「美味しかったのに忘れちゃったの?」
子ども:「う~ん、・・・・・ハンバーグを食べたんだ!」

 

<そのまた翌日>
お母さん:「今日の夕食は何を食べたい?」
子ども:「コロッケが食べたい!」
お母さん:「2日前の夕食にコロッケを食べたよね?」
子ども:「違うよ、2日前の夕食はハンバーグを食べたんだよ!」

 

このようなお母さんと子どもの会話ですが、ある日の夕食に食べたのは「コロッケ」が事実ですが、子どもは「ハンバーグ」と答えています。
色々なケースがありますが、<夕食の翌日>の会話において、子ども心の優しさとして、「美味しかったのに忘れちゃったの?」と言われて必死に考えたことと思われます。
色々思い出そうとしたのでしょうが、子どものイメージにはハンバーグがポンと浮かんだことと思います。
そして、このような子ども心における必死さとハンバーグが、その子どもの心・イメージと結びついた所です。
その結果として、<そのまた翌日>の会話でもハンバーグと答えています。

 

また、別のケースとしては以下の会話でも偽りの記憶が作り出されます。

<夕食の翌日>
お母さん:「昨日の夕食は美味しかった?」
子ども:「うん、美味しかったよ!」
お母さん:「昨日の夕食は何を食べたんだっけ?」
子ども:「う~ん、忘れちゃった!」
お母さん:「美味しかったのに忘れちゃったの?昨日食べたのはハンバーグでしょ!!!」
子ども:「ごめんなさい、そうだった・・・・・ハンバーグを食べたんだ・・・」

 

最初のケースではあくまで子ども心の善意として偽りの記憶が作り出されていますが、次のケースではお母さんがコロッケと知りつつもハンバーグと鎌を掛け、子ども心における叱られることの「怖さ」などの感情から偽りの記憶が作り出されているのかもしれません。

 

また、子どもが前世?らしきお話を始めた頃にも、このような偽りの記憶というのが作り出されることもよくあります。

<前世と思われる会話>
お母さん:「産まれてくる前には何をしてたの?」
子ども:「畑でトマトとか色々な野菜を作って売ったり食べたりしてたんだよ!」
お母さん:「その時にトマトは本当にあったの?」
子ども:「う~ん、・・・・・間違えた!大根だった!」

 

現在のお母さんにはその当時に「トマト」があったとは思えなかったので聞き返しています。
すると子どもは無意識に何かしらを感じ「大根」と答えています。
そして、この前世と思われる会話をその後も続けていくと、色々な事が子どもの会話に付け加わっていくケースも多々あります。

 

例えば、話を聞く日によって、住んでいたお家が1階建てから2階建てに変わったり、今で言う従業員の立場であったものが経営者の立場に変わっていたりと、、、、、。
また、前世と思われるお話の場合には、今まで夜寝る前に読み聞かせていた絵本の内容や挿絵などが混同されてお話しているケースもあります。

このように偽りの記憶が作り出される一つの要因としては、

 

何かしらの感情とイメージが結びついた時

 

というのが挙げられます。
そして、もう一つの要因として、

 

繰り返し質問され、繰り返し答え続ける

 

というのが挙げられます。
そして、この「繰り返し」というのが、

 

偽りの記憶が本人にとっては真実となる

 

という点に結び付いていきます。
このような偽りの記憶というのは、私達の誰もが持っている可能性があります。
例えば、大人になってから小さい頃のお友達とお話をしていると、自分の記憶とは幾つか違っているなぁと感じたり、親類の人と子ども時代の話をしている時などにもよく見受けられると思います。

 

このような偽りの記憶というのは特段気にする必要もありませんし、トラウマになるといったケースもほとんど心配する必要はありません。
しかし、先のケースのように、

 

叱られることの「怖さ」などの感情

 

と結び付いている偽りの記憶は、大人になってからも多少の影響は残っている可能性はあります。
また、当然のごとく偽りの記憶というのは何歳になっても作り出されるものですので、このような所謂「負の感情」と結びついている偽りの記憶が幾重にも積み重なって作り出されているケースもあるかもしれません。

 

前世療法でも年齢退行療法においても、思い出された記憶が偽りであるのか真実であるのかは、実はほとんど気にしません。
しかし、現に「今」の段階でそのような記憶が思い出されたという所、あるいは、そのような記憶を持ち続けているという所にポイントを当てていきます。
そして、ここで大切にする点は、

 

その記憶から何を学び、今後にどう活かしていくのか?

 

という点です。
今回のテーマのような偽りの記憶というのは私達の誰もが持っていますし、特に日常生活において影響を感じている場面などがなければ気にする必要もありません。
ただ、偽りの記憶というのは、どこかに「違和感」を感じるという所から真実が明らかになっていくケースもあります。

 

ここから先は私の実際の体験ですが、昨年、私自身の偽りの記憶の真実が明らかになった事柄があります。
と言っても、取るに足らない事柄ですが、「違和感」から真実が明らかになっていったケースですので、簡単にご紹介します。

 

私は小さい頃からジャッキー・チェンの映画が好きで、今でもよく繰り返し観ています。
その中でも、小学生の時に観たある映画が好きで、現在に至るまで繰り返し観ていたのですが、その映画の「ある場面」になるといつも「違和感」を感じていました。

 

小学生の当時の私の家にはビデオデッキもありませんでしたし、今のようにレンタルビデオ店というのもほとんどありませんでした。
そのような時代の中、映画のサウンドトラックというのは結構流行っていました。
当時はCDではなくカセットテープが主流で、そのサウンドトラックの中には、主題歌のみならず、映画の「ある場面」の「セリフ」と「効果音」が収録されていました。
そして、当時の私はその映画のカセットテープを何度も「繰り返し」聞いては、映画の場面を「回想」したりしていました。

 

話は戻りますが、好きで観ていたその映画の「ある場面」とはカーチェイスの場面です。
当然映画ですので、カーチェイスの「映像」と「セリフ」と「効果音」が三位一体となっています。
しかし、いつ観てもそのカーチェイスの場面になると「違和感」を感じていました。
そして、その「違和感」とは、

 

当時と興奮や感じ方の度合いが違う

 

というものでした。
大人になってから観ているので感じ方が違うのもある意味当たり前かな?あるいは、何度も繰り返し観ているので興奮の度合いが下がっていったのかな?などと心の中では思いながら特に気にすることはありませんでした。

 

そして昨年、久しぶりにその映画のカセットテープを聞いていました。
そのカセットテープには、その映画のカーチェイスの場面が「セリフ」と「効果音」と共に収録されています。
すると、その当時の興奮と感じ方に近いものが心の中に広がっていきました。
そこで、何が違うのだろうと思い、その映画のカーチェイスの映像とカセットテープの音を較べてみました。
すると、

 

「効果音」が違う

 

ということが分かりました。
つまり、映画では「映像」「セリフ」「効果音」が三位一体ですが、カセットテープでは「セリフ」と「効果音」そして私の「回想」が三位一体となっています。
そして、この中で一番力を持って私に影響を与えていたのは、

 

私の「回想」

 

です。
そして、私の「回想」を作り上げていたのは、

 

映画の「映像」「セリフ」 + カセットテープの「効果音」 = 私の「回想」

 

というものでした。
つまり、私は自分の「回想」を繰り返していく中で、

 

全く存在しない「映像(映画)」「セリフ(映画)」「効果音(カセットテープ)」という三位一体のカーチェイスの場面を作り上げていた

 

ということです。
そして、私の興奮や感じ方の度合いも、

 

私の「回想」から産み出されていた

 

ということです。
つまり、

 

私の「回想」は「偽りの記憶」

 

であったということです。
そして、このように「違和感」が判明しても、私の中に今だに印象強く残っているのは、

 

私が作り上げた「偽りの記憶」=「回想」

 

です。

今回の映画のケースは日常生活に影響を及ぼすものでもありませんし、あくまで自分の心の中の出来事ですのでプラスに捉えています。
このような日常の中に芽を出している「違和感」というものを感じる際は、あなたの中に「偽りの記憶」がある証かもしれません。
その記憶の真実を探り当ててみるのも面白いかもしれませんよ。
そして、探り当てる一つの灯台になってくれるのが、「繰り返し」行ってきた所に秘められているかもしれません。

 

ここから先は余談ですが、「偽りの記憶」についてもう一つお話します。
不謹慎なケースかもしれませんが、この「偽りの記憶」というのは、一部のストーカー行為にも当てはまります。
ストーカーが逮捕され取り調べを受けた際などに、ほとんど面識が無いにも関わらず、彼女は私と付き合っている、現に好意を寄せている、などの発言がなされる場合があります。

 

このようなことは、そのストーカーが自分の中で繰り返しそのような場面を妄想し続けた結果、現実とイメージの区別がつかなくなっているケースもあるかもしれません。確かに、潜在意識は現実とイメージを区別出来ないという特徴はありますが、ここまで度が過ぎると自分で自分をマインドコントロール(洗脳)している状態に近いと思われます。

 

ストーカー行為というのは、相手の人生に土足で入り踏みつけるような行動で決して行ってはならないものです。
人権や本人の自覚の度合いなど難しい部分も確かにありますが、警告や接近禁止命令などの現実的な対応と共に、何故そのような思いと行動に至ったのかを、「意識の側面」からも本人に気づかせていく作業というのも必要なのかもしれません、、、、、

2016年7月8日 02:07

ドッペルゲンガーとパラレルワールド

こんにちは。
レイキ ヒーラー&ヒプノセラピストの瀬川です。

 

今回は、スピリチュアルな世界における見解と、最先端科学でもある量子力学における検証において、私なりに不思議な共通点があるのでは?との視点から「ドッペルゲンガーとパラレルワールド」というテーマでお伝えしていきます。

 

まずは、スピリチュアルな世界における見解として「ドッペルゲンガー」を取り上げます。
この「ドッペルゲンガー」という言葉を皆さんは聞いたことがあるでしょうか?
この言葉には複数の意味合いがもたらされているケースが多いですが、簡単にご説明します。

 

「ドッペルゲンガー」とは、自分の分身、あるいは、同一人物が同時に複数の場所に現れる現象、あるいは、自分がもう一人の自分を見る現象などと説明されていることが多いです。

 

また、日本においても江戸時代頃からこのような現象が報告されており、同様の意味の日本語としては「離魂病」と称されていることが多いです。
なお、「離魂病」と称されていますが、これは医学上の病名や診断で扱われている事柄ではありませんのでご了承下さい。

 

そして、「ドッペルゲンガー」を体験した人は「亡くなる?」などの噂もつきまとっていますが、これに関しては後述しますので、ひとまず先に進んで行きましょう。

 

では、もう一つの量子力学における検証の「パラレルワールド」です。
「パラレルワールド」についてはSF映画などが好きな人には馴染みがあるかもしれませんが、「並行宇宙」とも言われたりするように、この宇宙には、その時その時の選択と決断の違いにより、複数の自分が存在し、そして、それぞれの世界で自分が実際に生活をしているという見解です。

 

例えば、今、このTOPICSを読むと選択・決断したあなたと、このTOPICSを読んでいないあなた、あるいは、今日の夕食にご飯を食べたあなたと、麺類を食べたあなたなどが、今この時にこの宇宙には同時に存在しているという見解です。
食べ物一つを例に取っても、和食・中華・イタリア料理・タイ料理など、それこそ複数存在しています。
そのうちのどれか一つを選択し、それを食し、そして、それぞれの料理を一緒に食べる人にも違いが生じてきますし、料理に合う飲み物の選択一つ取っても違いが生じてきます。
つまり、些細な選択・決断を一つ取っても、それ以降には無数のあなたがこの宇宙に同時に存在しているという検証です。

 

ところで、このような「パラレルワールド」の理論・検証に繋がっていく量子力学における有名な実験の一つがあります。
それは以下のような実験です(詳細は簡略化しております)。

 

ある箱の中に、一匹の猫と毒薬を入れます。
この箱の中における猫の選択と行動としては、

 

毒薬を飲まない猫
そして、
毒薬を飲む猫

 

の二つの選択と行動が生じます。
では、この箱の中の猫は、どちらの選択をし、どちらの行動を取るのでしょうか?
その結果は・・・・・

 

その箱の中を確認する人によって違いが生じる

 

というものです。
つまり、ある人が箱の中を見れば猫が生きているし、また、ある人が箱の中を見ると猫が死んでいるという結果です。
ある意味、当然の結果に思われることでしょう。

 

しかし、ここでの「見る」という行動で違いが生じるというのが、「パラレルワールド」に繋がっている検証です。
それは、ある人が箱の中を見るまでは、その箱の中では・・・・・

 

生きている猫と死んでいる猫の世界が同時に重なっている

 

という点です。
これは、例え話や仮説ではありません。
量子力学という学問分野においては、この「世界が同時に重なっている」という点はすでに理論上は実証され、定説となっています。
そして、このような量子力学における検証結果などは、実は私達が現在普通に使用している携帯電話などの機器に応用され活用されています。
現在では、私達が使用しているほとんどの機器類において、量子力学における研究成果が活用されているのが実情です。

 

それでは、少しだけ話を発展させて行きましょう。
現在のノーベル賞を受賞している物理学などの分野では、この量子力学を基にして発見された「反物質」という概念が証明されています。
「反物質」については以前にもこのTOPICSにおいて少し触れていますが、この「反物質」の特徴とは、

 

「物質」と「反物質」が同じ割合で出会う(衝突する)と、お互い消滅してしまう

 

という点が挙げられます。
例えば、「物質1.0」と「反物質1.0」が出会うと相互に消滅し、「0 = 無」になってしまうという現象です。
これは「対消滅」と呼ばれています。

 

では、「ドッペルゲンガー」に話を戻しましょう。
先ほど「ドッペルゲンガー」を体験した人は「亡くなる?」という噂があることに触れました。
ここから先は、私の全くの個人的見解であり真相は分かりません。
が、話を続けていきます。

 

もし仮に、この「ドッペルゲンガー」という現象が「パラレルワールド」と結び付いている現象と考えると、どうなるでしょうか?
「物質1.0」と「反物質1.0」が出会うと確かに相互に消滅してしまいます。
そして、仮に今この時点に意識の焦点を合わせている「この世のあなたを物質1.0」と仮定します。
「パラレルワールド」においては、選択・決断の違いにより、無数のあなたが同時に存在しています。

 

仮に、あなたが今のこの世において「ドッペルゲンガー?」と思われる現象を体験したとしても、それはいわゆるパラレルワールド上の「反物質1.0であるあなた」と出会うことはあり得ないことでしょう。
なぜなら、繰り返しになりますが、無数のあなたが同時に存在しているからです。
仮に出会ったとしても、その出会ったあなた自身は、

 

0.00000、、、、、1の割合のあなた自身(という反物質)

 

であることになります。
つまり、「反物質1.0たるあなた自身」ではなく、無数にある選択・決断をしたあなたの「一側面」でしかないということです。
もしかしたら、この「ドッペルゲンガー」という現象の研究、そして、それを体験した人は「亡くなる?」という噂が結び付いているのは、このような「物質」と「反物質」の関係における「対消滅」という現象を、理論と実験で証明される以前に、何か肌で感じ取った結果から導き出されたものであるのかもしれません、、、、、

 

そして、「離魂病」でよく例えられる説明ですが、例えばあなたがボッ~とソファーでくつろぎながら、夢うつつの白昼夢の状態でいるとします。
すると後日あなたのお友達が、まさにあなたがそのような白昼夢の状態でソファーにいた時間帯に、あなたがどこそこで買い物しているのを見たよ、などの話がよく引き合いに出されたりします。
なお、「離魂病」は「夢遊病」と同じという見解もありますが、「夢遊病」は意識はどうあれ実際の体を伴った行動ですが、「離魂病」は実際の体を伴っていないという点から、両者は違うのでは?と個人的には思っています。

 

ボッ~とするのが悪い訳でもありませんし、時には心の赴くままに空想したり、想像力に浸ることは心の洗濯にもなります。
しかし、常にこのような「心ここにあらず」という状態に陥るというのは、やはり望ましい状態ではないと考えられます。
今回は「ドッペルゲンガー」と「パラレルワールド」を結び付け、そして、「離魂病」を取り上げました。
真相はそれらのいずれも分かりませんが、「ドッペルゲンガー」と「離魂病」の現象、そして、それにまつわるある種のネガティブな噂というのは、

 

「今」に「心」を保つことが大切ですよ
そして、
無数にある現実から、「今」という選択・決断をしたあなた自身を大切にして下さい
 

というメッセージが隠されているのかもしれません、、、、、

 

また、今回は「ドッペルゲンガー」というスピリチュアルな見解と、「パラレルワールド」という科学の検証を結び付け共通点を見出そうというテーマでした。
同様のテーマとしては、臨死体験や体外離脱などの「意識」という側面からも見出せる余地はあることでしょう。
古来から宗教と科学は対立をし、戦争までをも引き起こしてきました。
また、現在においてもスピリチュアルと科学は対立構造である部分もあります。
スピリチュアルと宗教も同様の関係です。
しかし、それぞれを組み合わせる、あるいは、それぞれの視点を変えることで「共通点」が見出せることもあるかもしれません。

 

先頃、イギリスのEU離脱ということで、イギリスそのものが分裂するのでは?という危惧も持たれています。
以前からのTOPICSにおいてもお伝えしていますが、宗教、科学、スピリチュアル、戦争、そして、イギリスの課題も共通しているのは「分離」という点です。
そして、これを解決していくのは「共通点」を見出すことにあるのでは?と個人的には思っています。

 

「心」と「体」の分離、「自分」と「他者」との分離、そして、「自分自身の中」での分離など様々な側面がありますが、最近「自分という中心」が揺らいでいるのでは?と感じる際は、どこに「分離」が生じているかを探すことで一助になるかもしれません。
なお、「分離」と「違いを尊重する」という視点は異なるものですので、この点も考えてみて下さい。

 

そして、ここから先は全くの余談ですが、今の時期しかコメント出来ないので考えてみて下さい。
青森県は選挙の投票率が全国最下位という状態が続いています。
そこで、一つの例を挙げていきますが、2015年に火災保険の料率が改定されました。
自然災害の増加という理由で全体的に値上げ傾向になってはいます。
そのような中、色々な諸事情もあるのかもしれないですし、全てのお宅に当てはまっている訳ではありませんが、青森県の火災保険料率は16%から最大24%程も値上げに該当している物件が多数あります。
自然災害の増加という「表」の理由が挙げられていますが、実際には火災保険料率が下がっている都道府県もあります。

 

投票率と火災保険の値上げに「直接」の関連性はないのかもしれませんが、投票率が低い青森県は、物言わぬおとなしい県民、「裏」を返せば、だまって従う県民と思われている節はないのでしょうか?
残念ながら、今の世の中の仕組みには「裏」というものが存在しています。
物事は大きい小さいに関わらず、それぞれが繋がっていて、それぞれが出来事に反映されている側面も多々あります。

 

投票率を競うというのは本来おかしな話ですが、これはそれぞれの意識が変わることで、即座に投票率1位になることも可能になります。
この点については段階を踏む必要性もありません。
勿論、投票率全国1位になることが目的でもありません。
投票率が全国最下位ということは、「無関心の度合いが全国1位」という「裏」返しでもあります。
どこに投票しようと、誰に投票しようと皆さんの自由です。
是非、それぞれの「思い」を1票という「形」に表して、それぞれの望む人生を創り上げる一歩としてみて下さい。

2016年7月1日 04:07

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