伝言ゲームとクリティカル・ファキュリティー(判断のフィルター)

こんにちは。
レイキ ヒーラー&ヒプノセラピストの瀬川です。

 

今回は身近なコミュニケーション・ツール(道具)としての、クリティカル・ファキュリティー(判断のフィルター)をテーマにお伝えしていきます。
クリティカル・ファキュリティー(判断のフィルター)については後ほど説明していきますが、まずは伝言ゲームから進めていきたいと思います。

 

伝言ゲームについては、皆様も小さい頃に遊んだ経験があるかもしれません。
これは、あるお題や短い文章などを、耳打ちで人づてに伝えていき、最終的にその伝言の内容が正確に伝わっているかどうかを競う遊びです。
正確に伝わっていく場合もあれば、全く違った内容が伝わってしまう場合もあります。
時間制限もありますので、記憶力が問われる場面もあるでしょうが、実はそれだけではありません。

 

そして、このような伝言ゲームの状況は、私達が頻繁に身近に経験していることでもあります。
そこで、一つのケースを挙げて進めて行きましょう。
登場人物は、花子さん、太郎さん、一郎さん、そして、外国人のジェームスさんの4人です。

 

ある日、花子さんの元に、とても「美味しい」青森産のリンゴが届けられました。
そのリンゴは近来まれに見る程の出来映えでした。

とても「甘いもの好き」の花子さんは、そのリンゴを食べてとても美味しく感じ太郎さんに次のようにお話しました。

 

花子さん:「太郎さん、先日リンゴを食べたんだけど、今まで食べた中でも、とても美味しかったよ!2個あげるから是非食べてみて!」

 

そこで、花子さんは太郎さんにリンゴを2個あげました。
「酸っぱいもの好き」の太郎さんもリンゴは好きなので、楽しみにそのリンゴのうちの1個を食べました。
そして、リンゴを食べた太郎さんは、確かに美味しかったけど、少し甘いなぁ~と感じました。
そこで、手元にもう1個あるから、友達の一郎君にそのリンゴをあげようと思い、次のように一郎さんにお話しました。

 

太郎さん:「リンゴを貰ったんだけど、さほど酸っぱくもないリンゴだから、よかったら食べてみて!」

 

そして、太郎さんは一郎さんにリンゴを1個あげました。
「柔らかい熟れた桃が大好き」な一郎さんは、あまり食べたことのないリンゴだけど、せっかく貰ったのだからと思い食べてみました。
確かに酸っぱくもなくシャリシャリしてると思いましたが、リンゴをあまり食べた経験がないので、リンゴって桃より固くて甘みが少ないものだなぁ~と感じました。

そして、一郎さんはリンゴを食べた翌日に外国人のお友達であるジェームスさんとお話していました。

 

ジェームスさん:「青森はリンゴが有名らしいけれど、リンゴってどんなものなの?」

一郎さん:「少し固くて多少甘みはあるけど、僕は桃の方が好きだなぁ!」

 

お話はここまでですが、このお話のもう一人の主人公は、近来まれに見る程の出来映えに育った「美味しい」リンゴです。
では、母国にリンゴがないジェームスさんは、この後、母国に帰ってリンゴのお話をする時、どのように伝えていくのでしょうか、、、、、?

 

ところで、私達の意識は「顕在意識」と「潜在意識」に概念上は区分されています。

 

「顕在意識」とは、主に分析や判断を司る役割をしており、私達が日常生活を送る上でも、色々と守ってくれている意識になります。
何かおかしな電話が掛かってきた時に、これは詐欺では?と疑うような役目も果たしています。
そのような顕在意識ですが、この中には常識や先入観というのもこの範疇に入ります。

 

一方の「潜在意識」とは、私達の全ての経験が蓄積されていて、また、自分でも気づいていない素晴らしい能力が秘められている意識とも言われています。
ヒラメキや直感というのもこの範疇に入ります。

 

私達の意識は、常時このような「顕在意識」と「潜在意識」の絶え間ない交流により産み出されていますが、日常生活を送る上では「顕在意識」の方が主流になっていることが多いと思われます。
例えば、何か新しい事を始めたい!と思った時でも、いやいや、今まで何をやっても三日坊主だった、、、、、あるいは、やはり私には無理だろうなぁ、、、、、といった分析や判断は「顕在意識」で行われています。

つまり、

 

潜在意識 → 新しい事を始めてみよう!

顕在意識 → 今までの経験や常識から見て、無理!

 

というように、私達は意識の中で顕在意識と潜在意識が交流をしているということです。
今までの経験というのは「先入観」からであり、やはり無理というのは「常識」から産み出されていることが多いです。

 

では、私達の中の「同じ意識」なのに、どうしてこれほど違うのでしょうか?
この違いを産む役割を果たしているのが、

 

クリティカル・ファキュリティー(判断のフィルター)

 

です。
このフィルターは表現を変えれば「意識の濾過(ろか)器」のようなものです。
潜在意識の中で、新しい事業を始めてお金持ちになりたい!と思っていても、このフィルターたる「意識の濾過器」でふるいに掛けられ、あるいは濾されるように、潜在意識の中の大きな思いがドンドン小さな粒のようになって顕在意識に届いてしまい、顕在意識では最終的にそのような粒のような小さな可能性に人生を預けるのは危険と判断してしまいます。

 

私達はこのように無意識に色々な思いや出来事を「自分なりのフィルター」を通して判断しています。
このフィルターは人それぞれ、目の粗い場合もあれば、目の細かい場合もあります。
また、目の粗い部分と細かい部分を巧みに使い分けているケースもあります。

 

どちらのフィルターが良い悪いということは決してありません。
目が粗すぎれば注意が散漫になってしまうケースもあるでしょうし、逆に細かすぎれば慎重になりすぎて何も出来なくなってしまうケースもあるでしょう。

 

潜在意識は私達の中の強く望む思いや、成し遂げたいという思いを産み出しています。
顕在意識はそのような思いを経験や常識などから分析・判断をしています。
そのために私達を守ってくれている側面もあれば、やりたい事を断念させるような側面もあります。
潜在意識から産み出されてくる思いがクリティカル・ファキュリティー(判断のフィルター)を通ることで顕在意識に到達します。
そして、この判断の「基準(フィルター)」というのは、

 

人それぞれ

 

です。
そして、人それぞれで良いのです。
この判断の基準(フィルター)がなければ、個性、あるいはアイデンティティーというのも失われかねませんし、社会のルールから大きく逸脱してしまう怖れも生じかねません。

そこで、先ほどのお話に戻りますが、

花子さんは「甘いもの好き」、太郎さんは「酸っぱいもの好き」、一郎さんは「柔らかい熟れた桃が大好き」という、

 

「味覚」を介した判断のフィルター

 

を通してお話が進んでいきました。
元は「美味しい」リンゴのお話でしたが、最終的にジェームスさんの中には、リンゴに対して何かしらの「先入観」も芽生えたことと思います。

 

皆様も人づてに何かを伝え聞いたり、あるいは、何かを発信することもあるかと思います。
自分の「フィルター」を無視する必要もありませんし、無いものにする必要もありません。
何かを「聞き」、そして何かを「伝える」という時には、この「判断のフィルター」を通しているということを頭の片隅に置いておく事で、これからのコミュニケーションが違ったものになってくるかもしれません、、、、、

 

また、何かに行き詰まっているなぁと感じる時には、「顕在意識」が「過度に」働きすぎているケースも見受けられます。
そのような時には、「自分のフィルター」を少し風通しの良いように調整し、「潜在意識」から語りかけられてくる言葉に耳を傾けてみては如何でしょうか、、、、、

2016年2月25日 05:02

人となり・・・・・とは?

こんにちは。
レイキ ヒーラー&ヒプノセラピストの瀬川です。

 

ここ最近は、女性タレント、そして(元)国会議員の不倫について色々騒がれていました。
また、政治家によるお粗末、あるいは幼稚(幼稚というのは子どもに対して失礼かもしれませんが)な失言も多発しています。
そこで、今回は「人となり・・・・・とは?」というテーマで進めていきたいと思います。
なお、今さらながら不倫の是非を考える訳ではありませんし、話題の人物を裁くことでもありません。
このTOPICSをお読み頂いている皆様は、自分でキッチリと思考できる力がありますので、ご自身なりの見解を大切にして下さい。

 

そこで、「人となり」を進めていくに当たり、方程式のような図式により、ビジュアルも通して進めていきます。
その中で、「≠」という記号が出てきますが、これは「イコール(=)ではない」という等号否定の意味になっています。

それでは、まず、私達の行動様式を簡単に図式化してみます。
それは、

 

「 思い 」 → 「 言葉 」 → 「 行動 」

 

というように表せるかと思います。
私達は心の中で何かを「思い」、そして、その「思い」を「言葉」を通して表現し、そして、最終的に「行動」を起こしているという意味です。
あくまで簡略化した順番ですが、実際はこれら一連の流れが一瞬にして、そして無意識で行われていることも多々あります。

このような一連の流れが総体として「人となり」となって表現されています。
つまり、

 

「 思い 」 + 「 言葉 」 + 「 行動 」 = 「 人となり 」

 

というように図式化できます。
では、今回不倫で話題になっている人物はどうでしょうか?
おそらく、

 

「 思い 」 = 「 行動 」 ≠ 「 言葉 」 → 「 人となり 」

 

となっていると思われます。
つまり、心の中で「思って」いることと「行動」は一致しています。
しかし、

 

「 言葉 」 が一致していない

 

ということになります。
平たく言えば「嘘」という表現になるでしょう。
本来であれば全てが一致して「人となり」となって表れるはずが、「言葉」が一致していないことにより、
何か違和感のような、あるいは人によっては嫌悪感が生ずることと思います。

では、失言についてはどうでしょうか?
おそらく、

 

「 思い 」 = 「 言葉 」 ≠ 「 行動 」 → 「 人となり 」

 

というように表せるかもしれません。
つまり、「思って」いることと「言葉」は一致しています。
しかし、

 

「 行動 」 が一致していない

 

ということになります。
「行動」が一致していないというのは、

 

「誤解を与えたとすれば、、、」 あるいは 「不愉快な思いをさせたとすれば、、、」

 

発言の撤回や謝罪をします、というように「条件付き」で「行動」しているということです。
この「条件付き」という所に違和感を感じているのかもしれませんし、心の中ではそのように「思って」いないなぁと判断されがちになるということです。
つまり、誤解と捉えていない人には発言の撤回も謝罪も必要ないということです。
ここでは、

 

「 人となり 」 がダブルスタンダード(二重基準)

 

になっているということです。
これは周囲から見れば「本心」が分からないということに繋がってしまいます。
人の評価や判断は十人十色です。
それで構いません。

しかし、「自分」の中で「人となり」を複数産み出すということは、以前からもお伝えしているように、

 

「 分離 」 を産み出してしまう

 

ということになります。
本来望ましいのは、繰り返しですが、

 

「 思い 」 + 「 言葉 」 + 「 行動 」 = 「 人となり 」

 

です。
なぜなら、ここには「一貫性」が貫かれているからです。
皆様も何か物事がスムーズに進んでいるなぁという経験はあることと思います。
「念ずれば通ず」などの言葉にも表せるように、「一貫性」が自分の中を「通じている」ことによって、「思い」が実現化しやすくなります。

 

「思い」「言葉」「行動」には、それぞれ「力」が備わっています。
しかし、どれか一つが別の方向に使われると、

 

「力」のハレーション

 

が起こってしまいます。
「ハレーション」とは、「強い光が当たった部分の周囲が白くぼやける」という写真の世界などでよく活用される言葉です。
つまり、本当は暗く写る所が、他の光が強すぎて、暗い所までが明るく見えてしまうということです。
これを人に置き換えると、

 

「負の側面」 までもが 「正の側面」 に写っている

 

ということになります。
「力」のハレーションが起こると、

 

本来の「人となり」が歪められる

 

ということです。
「人となり」を見極めるというのは確かに難しい側面もあります。
身近な人でも同様です。
ましてや、TVなどを通してしかその「行動」が伝わってこない場合などは特にその傾向が強いです。
しかし、最後に表れるのが「行動」であるならば、やはり、

 

「人となり」を見るには、「行動」を見る

 

というのが目安になるかと思います。
昔から「親の背を見て子は育つ」とも言われています。
「親」というのは血縁による関係だけでなく、「育ての親」というケースもあれば、「周囲の人々」あるいは「社会」も含まれています。

皆さんも「人となり」というのを考える時に、「一貫性」そして「行動」に着目してみて下さい。

 

ちなみに、この流れは「赤ちゃん」も同じです。
あえて図式化すれば、

「 思い 」 → (「 言葉 」) → 「 行動 」

というようになるかと思います。
(「言葉」)というのは、赤ちゃんは自分を表現する「言葉」をまだ身に付けていないだけです。
しかし、そこには「一貫性」は純粋に貫かれています。
そのために親や周囲の人々が、(「言葉」)の部分を推測したり、あるいは経験から補っているということです。
赤ちゃんの泣き方によってお腹が空いている、あるいはおしめを取り替えてあげるということが何となく分かるということです。
ここでは、

 

「 思い 」 = 「 行動 」

 

というように分かりやすく表現されています。
そして、なぜそれに対処出来るかというと、

 

「 思い 」 + 「 行動 」 = ボディーランゲージ(体で表す言葉)

 

になっているからです。
日本語や他の言語が通じない場合などに身振り手振りで伝えようとすることと同じです。
ヒーリングやセラピーも「言葉」や「体」を通してのコミュニケーションとも言えます。
色々なコミュニケーションの取り方があるということを考えてみるのも面白いかもしれません。

 

なお、ここから先は余談ですが、

私達が心の中で「思って」いることは「言葉」で思っているのか?

という研究もあります。
私達が自分の中の「思い」を考えてみる時、「言葉」を通して考えているというように感じやすいかもしれません。
しかし、先の赤ちゃんの例においては、「言葉」が無くとも「思い」は存在しています。
いわゆる「テレパシー」などは、私達も案外身近に感じて経験しているのかもしれませんね、、、、、

2016年2月18日 04:02

WHO(世界保健機関)と発霊法

こんにちは。
レイキ ヒーラー&ヒプノセラピストの瀬川です。

 

今回はレイキ ヒーリングにおける、自分でヒーリングの向上を目的として実践出来るテクニカルな手法である、
「発霊法」をご紹介致します。

 

なお、このTOPICSにおいても以前からご紹介している通り、レイキ ヒーリングは修得する、あるいはアチューメントを受けなければ行えないヒーリング手法ではありません。
レイキは誰にでも流れているエネルギーですので、今、この瞬間に、誰にでも活用出来るヒーリング手法です。
レイキ ヒーリング認定講座などでも、一から学びたいという方々も勿論いらっしゃいますが、習う以前に半信半疑で試しに行っているうちに、もう少し深く学んでみたいとの思いから受講される方々も多いことからご理解頂けるかと思います。

 

そこで、今回は「WHO(世界保健機関)と発霊法」というテーマでお伝えしていきます。
なお、WHOとレイキとは直接の関係性はありませんが、今回のテーマにおいては私なりの関連性を交えていきたいと思います。
「発霊法」の方法は最後にお伝えしますが、まずは皆様の中にあるかもしれないイメージや見方を少し変えるキッカケとして、「字」の成り立ちを見ていきます。

 

まず、「レイキ」は日本発祥のヒーリング手法である所から、本来は「霊気」と称されています。
この「霊気」が西洋で拡大するにつれ、「レイキ」と称されようになり、そこから世界各国に広まっている所から、現在では「レイキ」と称されることが多いです。

そして、「霊気」の「霊」という字は、

 

本来は 「 靈 」 という字を当てています。

 

「霊」という字は、「幽霊」や「亡霊」などと日本では使われているケースが多く、何か怖い、怪しいというイメージを伴っている字であることも確かです。

 

しかし、本来の「靈」という字の成り立ちは、そのようなイメージとは掛け離れています。
上の方の「雨」と「口」の3つの成り立ちは、雲から流れ落ちる「雨」を表していると言われています。
そして、下の方の「巫」という字は、文字通り神に仕える、あるいは神との取り次ぎを行う「巫女」さんを表しています。

 

つまり、「靈」という字の本来の成り立ちは、「豊作を祈願して、巫女さんが雨乞いをしている」という、厄払いや神社での各種祈願と同様に、現在の私達の日常生活にも脈々と連なっているものです。
「霊」という字の意味の中には、「死者の魂」という意味合いも含まれていることから、何か今に通ずるオドロオドロしいイメージにも繋がっているものと思われます。

 

ところで、今回のテーマの一つである「WHO(世界保健機関)」という用語は、皆様もニュースなどで一度は耳にされたことがあることでしょう。
WHOは、エボラ出血熱や、最近ではジカ熱などの、世界的流行(パンデミック)を防ぐための対策などを行っている機関です。
実は、このWHOでは以前から「健康の定義」などの提唱も行っています。
以前から行われていた「健康の定義」は以下の通りです。

 

「 健康とは、単に疾病または虚弱でないばかりでなく、身体的、精神的および社会的に安寧な状態(ウェルビーング)である 」

 

このように定義されています。
つまり要約すると、心身共にバランスが取れて、かつ、衣食住が足りていることが「健康である」ということです。
そして、1998年に、この「健康の定義」を見直してみようと提案がなされ議論されました。
そこで議論された、新しい「健康の定義」は以下の通りです。

 

「 健康とは、(中略)身体的、精神的、社会的および霊的(スピリチュアル)にダイナミックに安寧な状態である 」

 

ポイントは、「健康の定義」、つまり「健康である」ことの中には、

 

「 霊的(スピリチュアル) 」

 

な要素も含まれている、と考えられている所です。
そして、

 

「 精神的 」 と 「 霊的 」

 

が区分されている所です。
この案に対しては、イギリスなども賛成の方向で検討されていましたが、最終的には採択されませんでした。
各国の文化的背景なども考慮して採択はされませんでしたが、その理由の一つを紐解くと、

 

「 時期尚早 」

 

という点が上げられます。
「霊」=「スピリチュアル」というようにダイレクトな関係が成り立つ訳ではありませんが、
私達日本人の多くが「霊」という字に対して抱いているイメージ、そして、この「霊」という字の意味合いの一つである「スピリチュアル」という要素が、このような世界的に「健康の要素」として考慮されているという点、そして「時期尚早」と考えられた点などを、自分なりに考えてみると、何か見えてくるものがあるかもしれません。

 

このように「霊」という字の関連性から、もう一つのテーマである「発霊法」をご紹介します。
なお、S.Light.Mにおいて行っているレイキ ヒーリング認定講座においては、詳しい点を教えていますが、今回は自分で簡単に出来るという点がポイントですので、簡略化した内容をお伝えします。
方法は簡単です。

 

単に、手を合わせる

 

だけです。
合掌のようなイメージですが、胸の前で手を合わせる必要はありません。
胸の前で手を合わせると、ご家庭の中や移動中の電車やバスの中では怪しい目で見られてしまう可能性は大です!

 

なので、例えば座っている時などに、手を軽く合わせて膝の上に置いておくなどの方法が良いと思います。
これはTVを見ながら行っても大丈夫ですし、誰かとおしゃべりをしながら行っても大丈夫です。
何かの境地を求めて必死に行う必要はありません。
むしろ、リラックスして、そして手を合わせていること自体を忘れてしまっている状態の方が望ましいです。

 

そして、もう一つのポイントですが、合掌のようなイメージだと、手と手がピッタリとくっついてしまいますので、

 

手と手の間に、小さい卵を包み込んでいるように、、、軟らかく、、、手を合わせる

 

という点です。
10分も手を合わせていると、手の平や指先にビリビリする感じや、チリチリする感じなどが生まれてきます。
ここでの感覚は人それぞれ色々ありますが、何か感じる感覚がお互いの手の間をレイキが流れているという証になります。
また、この感覚が生じた後に、お互いの手を離したり、くっつけたりしていると、何か手の間に抵抗を感じることもあります。
これもエネルギーの感じ方の練習として他のヒーリング手法でもよく活用されています。

 

私は寝る時は仰向けではなく、横になって寝入ることが多いですので、横になって枕などを肘の辺りに挟んで手を合わせたりしています。
勿論このまま寝てしまっても構いません。
興味のある方は、ご自身なりのやりやすい方法で構いませんので試してみて下さい。

2016年2月11日 05:02

依存症と違法薬物

こんにちは。
レイキ ヒーラー&ヒプノセラピストの瀬川です。

 

先日、元プロ野球選手の清原和博 氏が覚醒剤所持の疑いで逮捕されるという事件が起こりました。
私も小・中学校と野球をしていたので、その頃の野球少年にとっては、清原・桑田のKKコンビというのはアイドルのような存在でしたので、今回の事件は個人的にもとても残念に思います。

 

報道などでは、覚醒剤に手を染めるように至った背景などが色々分析されていますが、今となっては清原 氏 本人も真実が見えなくなっているかと思います。
違法薬物に手を出すということは絶対行ってはなりません。
しかし、私達と無縁の世界ということでもありません。
批判や同情など様々な意見もあることでしょうが、私達が同じ轍を踏まないよう、今回は「依存症と違法薬物」というテーマをお伝えします。

 

まず「依存症」とよく言われますが、この態様はまさに様々あります。
アルコール依存、ギャンブル依存、買い物依存など様々です。

 

ところで、上記の例のように、「アルコール」「ギャンブル」「買い物」は違法性を伴うものではありません(注:未成年者の飲酒や、賭博などのギャンブルは違法ですので、ここではあくまで合法と認められている範囲内のものです)。

良い仕事をしたなぁ~! と、美味しいお酒を夜に飲む方もいらっしゃるでしょう。
ちょっと時間があるからお小遣いの範囲内でパチンコでもやってみるか! と、ストレス解消も含めて行う方もいらっしゃるでしょう。
今回は家事も頑張ったので、自分へのご褒美の意味で少し高めのお化粧品を買ってみよう! と、自分へのケアの意味も込めて買う方もいらっしゃるでしょう。
自分へのご褒美という意味では、今日は少し奮発して3千円の昼食を食べよう! なども同様です。

 

これら全ては勿論違法でもありませんし、どちらかと言えば、微笑ましさすら感じる当たり前の行動のようにも思います。
そうです、これら全ては私達の誰もが日常を通して行っていることです。
では、「依存症」とこれらの行動と、どこが違うのかと言うと、それは、

 

程度の違い

 

ということです。
美味しくお酒を飲むのは良いですが、度を超して飲み過ぎて翌日遅刻をしてしまう、それも何度も、、、、、
お小遣いの範囲内と思ってパチンコをしたが、負けが続いたので、借金をしてまで負け分を取り戻そうとパチンコをし続ける、、、、、
高いお化粧品を買うのは良いですが、それから1週間の食事は家族全員パンだけ、、、、、

もうお分かりかと思いますが、

 

極端に 過度になる あるいは 過小になる

 

という所がポイントです。
過度そして過小という意味合いでは、過食症や拒食症という言葉を皆さんも聞いたことがあるかもしれません。
そして、極端に過度あるいは過小になるということは、

 

バランスが取れていない = 自分を見失いつつある

 

ということです。
そして、バランスを取るためには「自分の軸」に気づくことが必要であり、そのことにより「自分を取り戻す」ということに繋がっていきます。

そして、この「自分の軸」というのは人によって違います。
1千円の昼食がご馳走と思う人もいれば、1万円の昼食は当たり前と思う方もいるかもしれません。
ギャンブルをするために5千円のお小遣いの範囲内で行う人もいれば、お小遣いは10万円だから5万円までギャンブルを行うという方もいるかもしれません。

 

このような、どこ迄が過度になるか、あるいは過小になるかという基準が「自分の軸」ということになります。
そして、この軸は人それぞれです。
故に、「自分の軸」に「自分で気づく」必要性が出てきます。

 

また、一見すると素敵な習慣と思えるような所にも「依存症」の形は現れることもあります。
ヒプノセラピー(催眠療法)で活用する簡単なメタファー(物語)を簡略化して一つご紹介します。
なお、このメタファーというのは、結論を提示するものでもなく、あるいは、ある意図の元に一定の方向に導くものではありません。
十人いれば、十人十色の考えが出て来るものですし、どのように受け取っても正解や間違いという性質のものではありません。
では、メタファーの始まりです。

 

「 ある所に、とても綺麗好きな女性が、旦那や子どもと一緒に暮らしていました。
仕事から疲れて帰って来る旦那のために、そして、学校から帰ってくる子どものために、心地よい空間で迎えてあげようとの思いから、一生懸命お部屋を綺麗にしようとお掃除に励んでいました。

そして、掃除をして綺麗になると、自分の心もとてもスッキリすることに、ある日気づきました。
それからは、綺麗にしようと一層掃除に励み、旦那がお風呂から上がっては掃除をし、子どもがお風呂から上がっては掃除をし、
食事時は、旦那が一皿食べたら食器を洗い、子どもが一皿食べたら食器を洗い、と綺麗を維持しようと様々なことを行っていました。

しかし、どうしてもホコリが舞ってしまうことに気づき、何とかならないかと色々考えました。
そこで、ソファーや絨毯など、ホコリが舞いそうなもの全てをビニール袋で覆うようにしました。

その結果ホコリも舞うこともなく、部屋は綺麗な状態を保つことが出来るようになりました。
しかし、綺麗な状態は達成出来たが、何か心の満足感は得られませんでした。
実は、その前夜、旦那と子どもは自分たちがいると部屋が汚れるからと言って、家を出て行ってしまいました。 」

 

ところで、「依存症」と言うと、先ほどの例のように、何か物的なこととの関わりが多く見受けられますが、「人間関係」にも「依存」はあります。
誤解無きようお断りしますが、「自分に出来ないことを誰かにお願いしてやってもらう」というのは「依存」ではありません。
また、お願いされたからやってあげるというのも「優しさ」ではなく、「当たり前のこと」です。
よく、当初は善意で行っていたことが、双方において「してもらっている」「してあげている」と捉えてしまうと、双方にとって望ましい結果にならないことはよくありますし、逆に言えば「こじれる」関係性に繋がっていきかねません。
「してもらったこと」に感謝をするのも素敵なことと思いますが、必要以上に「してもらっている」「してあげている」という感情は手放す方が双方にとって良い関係を持続出来ることと思います。

 

「人間関係の依存」の多くは、「自分の人生を誰かのために捧げてしまう」という所にも見受けられます。
これも本来はとても素敵な思いから発出しています。
ご家族の看病や介護などにも当てはまることもあります。
特にご病気の場合などでは、元気になって欲しいとの思いから一生懸命にお手伝いすることもよくあります。
これは、とても素晴らしいことと思います。

 

しかし、寿命を迎え、あれもしてあげられた、これもしてあげられた、でも出来なかった、、、、、など、後に考えることもよくあることでしょう。
そして、その人が旅立った後に、その人がいなくなったことにより、自分の人生を喪失してしまったと感じてしまう、、、、、
これは、医療現場などで患者さんが旅立った後などに起こる「バーンアウト(燃え尽き症候群)」や、子育てを終えた後の「空の巣症候群」なども同様です。

 

それまで一生懸命にしてきたことは、患者さんでもお子さんでも必ず理解しています。
しかし、その患者さんやお子さんが自分の人生から不在になることにより、自分の生きる価値を見い出せなくなるというのは「依存」の一つの現れでもあります。
とても素敵な行いが故に、あえて厳しい言い方になりますが、相手と共に自分をも大切にするという心構えが、双方にとっての「依存」を防ぐ一つの方法となり得ることと思います。

 

これまで、各種「依存症」などを見てきましたが、これらの中には肉体的な快楽を求めてしまうといった側面も確かにありますが、
ここでの「依存症」の多くは「心」から発出されています。

 

「寂しさ」を埋めるためにお酒を飲む、あるいは衝動買いをするということもあるかもしれません。
しかし、「寂しさ」を埋めるためにお酒を飲む、あるいは衝動買いをすることが「寂しさの解消」には繋がりません。
「寂しさ」を埋めるためにお酒を飲めない人が衝動買いをすることもあるでしょうし、買い物に興味のない人は逆にお酒を飲むかもしれません。
このように、「お酒を飲む」あるいは「衝動買いをする」ということが絶対的な解決法ではないということです。
表現を換えれば、「別の手段・方法」でも寂しさを埋めることが出来るということです。
そして、何かを埋めるための方法というのも人それぞれ様々です。
そして、ここに「程度」という「自分の軸」をしっかり保つことの重要性が存在します。

 

ところで、「違法薬物」の依存ですが、これは「違法」ということのみならず、また「程度」の問題でもなく、「その人そのもの」を壊してしまいます。
例えば、私達は常に空気を必要としていますが、空気を意識することはほとんどありません。
ある特殊な環境下、煙に巻かれている、高い山の登山をする、といった時などは、空気の薄さを感じ、空気を探そうとすることはあります。

 

空気は私達が生きていくために必須のものです。
しかし、同時に追い求めたり意識をしていないことも事実です。
肉体は私達が意識しようが意識しまいが、常に空気を求め必要としています。
なぜなら、肉体は常に生きることに全力を尽くしているからです。

「違法薬物」の依存とは、

 

肉体が常に空気を欲している

 

ようなものです。
どれだけ止めようと意識していても、肉体が生きるがために「違法薬物」を欲してしまっている状況です。

 

そして、不適切な例えですが、残念ながら社会には自殺もあります。
しかし、他の道具や手段を使わず、意思のみで呼吸を止め、死に至ることは可能なのでしょうか?

確かに訓練次第で意識して呼吸の回数を減らしたりなどは可能です。
しかし、私は意思のみで呼吸を止め、死に至ることは不可能と考えます。
ある意味、意思の力を上回る肉体の生への欲求が勝っているからだと思います。

 

そして、このような肉体の歪んだ欲求の現れが、「違法薬物」による依存ということになると考えています。
故に、禁断症状では死ぬほどの苦しみ、あるいは死んだ方がマシだと思えるほどの症状となって現れてくるのだと思います。

 

「違法薬物」に手を出すに至った理由が必ずあることも事実です。
そして、「違法薬物」に頼ってまでも「これから先も生きていたい」との思いが存在することも事実であろうと考えます。
しかし、「これから先も生きていたい」との思いを実現するために「違法薬物」に手を出すということは、

 

自殺と長生きを同時に実現させようとする

 

ことのように、不可能なことです。
そして、「違法薬物」の依存症というのは、肉体が空気を求めるかのごとく、依存性がとても強いということにあると考えます。

先の「依存症」は「心」に由来する部分が大きいと思いますが、「違法薬物への依存」は「心」を通り越して「肉体」を蝕むという究極の「依存症」になってしまいます。

 

各種「依存症」でも「違法薬物の依存」であっても、そのような現状を変えていくには、自分を省みる、あるいは内観するという作業が必要になります。
自分を見つめるというのは、自分の嫌な部分を見つめるということでもあり、とても辛い作業になることもあります。
嫌な部分というのは「未熟さ・弱さ」、あるいは「不完全さ」とも言えます。

 

しかし、私達の誰もが「不完全さ」を抱いています。
「完全な人」などというのは存在しないと思います。
「依存症」の人に特別限ったことではありません。

 

そして、自分を省みる、内観するということの作業が出来るということは、その人が「心身共に生きている」ことの証でもあります。
内観とは嫌な部分、あるいは不完全な部分のみを見つめる作業ではありません。
その「不完全さ」を抱きながら、それを補うその他の「素晴らしい力・能力」が備わっていることにも目を向ける必要性があります。
なぜなら、その人が今まで心身共に生きてこれたのは、このような「補う力・能力」が無意識ながらも発出されていたからです。

 

このような「不完全さ」は「闇」と表現される場合もあります。
しかし、「光」に照らされてこそ「闇」は浮かび上がります。
「闇」を感じた時は、実は常に「光」に照らされています。
この「光」こそが、「補う力・能力」かもしれません。

 

「闇」と向き合っていくには、

 

「闇」を減らす
あるいは
「光」を強める

 

などの色々なことが考えられます。
「違法薬物」の依存から、立派に新たな人生をスタートさせている人々も大勢いらっしゃいます。
希望、そして可能性というのは常に存在しています。

 

今回は長いテーマとなりましたが、私達と無縁のことではなく、そして同じ轍を踏まぬよう、
見る・聞く出来事から何かを掴み取れるよう進めてきましたが、とても大切なことと思いますので、
よろしければ皆さんも自分なりに考えてみて下さい。

 

そして、ここから先は余談ですが、清原 氏の心の中には逮捕されたくないとの思いと同時に、見つけてくれてホッとしている思いもあるように感じます。
プロ野球の世界では、ファンの声援に応えるために打ち、そして自らのために打ち、ということを上手くミックス出来ていたことと思います。

しかし引退後、プライベート、プロ野球界において「自分は必要とされていない」、、、、、
そして、それが「社会からも自分は必要とされていない」、、、、、と思うに至ってしまったのではと感じます。

実際には気に掛けてくれる知人や、手を差し伸べてくれている方々もいらっしゃったと思います。
ただ、それに気づくことが出来ていなかっただけなのかもしれません。
これから先の人生の再スタートには困難も伴うことと思いますが、人間・社会との隔絶が一番怖い所であるかもしれません。
まずは自分のために生き、そして、それと同時に周囲の方々の見守りも含め、
「自分は必要な人間だ」と思えるように、そして、改めて生き直すことが出来るよう、正しい方向に向かって生き抜いて欲しいと思います、、、、、

2016年2月5日 05:02

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