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孔雀王に見る光と闇の統合

こんにちは。
レイキ ヒ-ラ-&ヒプノセラピストの瀬川です。

 

ところで、今回は唐突ですが、私の遊び心からのテ-マとして「孔雀王に見る光と闇の統合」をお届け致します。
そこで、孔雀王というのは、私が高校生くらいの時に読んでいた漫画本です(笑)
描写にはかなりのH(エッチ)な場面も含まれておりますが(笑)、そのスト-リ-は想像力を掻き立てる面も満載で、今でも時折読み返したりしておりますが、その都度、新たな発見や気づきが産まれたりもしております。

 

そして、遊び心というのは、このTOPICSにおいても、美味しんぼなどの漫画からも題材を取り上げておりますが、「自分なり」に何かを発見したり、あるいは、何かに気づいたりする際に、必ずしも難解な本を読んだり、苦労を伴うような努力を強いられる必要性も無い、という意味も込められております。
何か弁解?のように聞こえるかもしれませんが、特に今回は、真剣にならずに、そして、力を入れる事なくお読み頂ければ幸いです(笑)

 

ちなみに、今回ご紹介するスト-リ-は、最初の孔雀王シリ-ズ(荻野真 作:全17巻)からのものになります。
また、この孔雀王は、以前に三上博史さん、阿部寛さん主演で2度の実写映画化もされております。
それでは、簡単にスト-リ-をご紹介しながら今回のTOPICSを進めて参りますが、内容はあくまでフィクションです。
ただ、そのスト-リ-の中から、もしかしたら、「皆さんなり」の何かを発見したり、気づくキッカケの素材となり得る部分もあるかもしれませんので、興味のある方は読み進めてみて下さい(笑)
では、ショ-ト・スト-リ-の開演です!!!

 

この物語は、弘法大使の空海が開いた高野山が舞台です。
しかし、その本当の舞台は・・・退魔業を主たる活動としている・・・裏高野山です・・・

かつて太古の昔に、光と闇の決戦が行われました。
そこで、対決をしていたのが、

 

光の守護神たる孔雀王

そして、

闇の盟主たる天蛇王

 

との争いでした。
孔雀王は別名ルシフェルとも呼ばれる存在ですが、光の守護神でありながら、光に背き闇に走っていきます。
それが故に、堕天使とも呼ばれています。
当初は孔雀王も天蛇王と共に、光を消滅させるべく力を合わせて光と対決していましたが、孔雀王と天蛇王が結ばれた事により、天蛇王は子を宿す事になりました。

 

それは、光と闇の両方を含む子でもあり、天蛇王は、我が子を闇の盟主にするべく画策しますが、孔雀王には躊躇いが残っていました。
そこで孔雀王は苦悩の末、天蛇王を殺し、まだ産まれぬ我が子をも殺し、そして、自らも消滅の道を辿る事を選択しました。
これで、光と闇の決戦は終結したかに見えました・・・が・・・

 

時が過ぎ、この物語の舞台である裏高野山に、退魔師の慈覚という男がおりました。
慈覚の力は想像を絶するほどの強大なものでしたが、幾ら魔を祓っても、あまりにも人の心が荒(すさ)んでいる事により、次々と魔は姿を現してきます。

 

そのような状況に絶望しかけていた慈覚は、もうこの状況を光の力だけで浄化させるのは無理であると判断し、冥府の底に幽閉されている、光と闇の両方の力を持った孔雀王を復活させ、その力によりこの世を何とか鎮めようと試みます。
しかし、強大な力があると言っても人間である慈覚には限界もあります。
冥府の底での闇との死闘の末、慈覚は敗れ去る寸前でした・・・

 

そのような冥府の底において、ある一人の女性が、瀕死の慈覚を見つけ助け出しました。
それが縁となり、慈覚とこの女性は結ばれる事になり、男女の双子が誕生しました。
それが、

 

弟である明(あきら)

そして、

姉である朋子(ともこ)

 

です。
慈覚には家族が出来ましたが、この妻たる女性は冥府に属するため、人の世には出て来る事が出来ません。
冥府の井戸の底で幾月年を過ごして来ましたが、ある日、裏高野山の退魔師達が、この双子の子を抹殺するためにやってきました。
実は、この双子は、闇の子が誕生すると言われている大凶星の日に産まれていたのです・・・

 

慈覚は退魔師達を説得しようと試みますが、それも叶わず、抹殺されそうな状況に陥ってしまいます。
そして、この時、双子の子を抹殺するよう退魔師達に命じた裏高野山の最高位の座主は、自らの二人の子にも、ある命令を下していました。
それが、

 

兄である日光には・・・闇の(子の)抹殺を

そして、

妹である月読には・・・闇の(子の)救済を

 

という命令でした。
説得も出来ず、このままでは親子皆殺しにされてしまうと思い、慈覚の妻でもあり、双子の母でもあるこの女性は、慈覚には子どもらを守るよう伝え、そして、二人の子には、名前に込めた思いを伝えて、家族を救うべく、3人を遠く地の果てへと飛ばします。
双子には次のように思いを伝えながら・・・

 

明(あきら)という名前には、「光」を司る日という字・・・どんなに辛い時にも決して失われない希望を意味するように・・・

そして、

朋子(ともこ)という名前には、「闇」を司る月という字・・・光と闇の二つの力が仲良く一つに結ばれるように・・・

 

そして、裏高野山から命を狙われ続ける親子3人の果てしない逃避行が始まりました。
逃避行を続けていく中、幾重もの人の命が犠牲となっていきました。
そのような疲れ果てた慈覚の心に、闇の声が語りかけてきました。
それは、

 

光と闇は相容れず、共存する事は出来ないが・・・どちらか一方だけであれば・・・もう一方は助かる

 

と。
疲れ果てた慈覚の心は、その言葉を真に受け、姉の朋子を殺そうとし・・・実際に手を下したその瞬間・・・気づきました。
実は、その時点では、光と闇などそもそもなく、

 

慈覚が姉である朋子を殺した時・・・それこそが・・・朋子という闇を産み出した瞬間である・・・

 

と。
そして、それは、その光景を見ていた弟の明の中からも・・・光を奪い去ってしまいました。
その後、朋子は闇の勢力により記憶を封じられ、幽閉されていきます。
そして、一方の明も、その後は裏高野山において、慈覚の師たる慈空により記憶を封印され、慈空の元で「孔雀」と名付けられ、退魔師として育て上げられていきました。
これが、太古の昔、孔雀王と天蛇王に宿った子の血が、

 

明たる孔雀においては・・・光の守護神である孔雀王の宿命を背負い・・・

そして、

朋子においては・・・闇の盟主たる天蛇王の宿命を背負い・・・

 

というように、光と闇が分離され、かつ、同時に存在する状況と成り果てました。

それから年月を経て、闇の勢力は、朋子を天蛇王へと誘(いざな)う為のキリストの聖杯を手に入れます。
一方の孔雀は、姉の朋子が生存している事、そして、天蛇王となり得る存在でもある事を知り、姉を救うべく、キリストにトドメを刺したと言われるロンギヌスの槍を手に入れ、姉の元へと向かいます。

 

そして、朋子が天蛇王とならぬよう、説得を試みますが、姉は聞く耳を持たず、逆に孔雀に対決を挑んできました。
そして、孔雀も説得は無理だと考え、この世の為に姉である天蛇王を抹殺しようと決意しました。
そして、孔雀はロンギヌスの槍で姉の身体を突き刺します・・・

ところが、突き刺したにも関わらず、天蛇王を殺す事は出来ませんでした。
なぜなら、

 

孔雀の心の中に・・・

殺意という・・・

闇が産み出されてしまったが故に・・・

その瞬間に・・・

槍の持つ光のパワ-も消失してしまった・・・

 

からです。
しかし、物事はこれで終わりませんでした。
一方の姉である朋子は、

 

父、弟・・・という肉親二人の手によって・・・

二度、殺された事により・・・

朋子の心の中の光は、完全に消え去り・・・

その瞬間に、真の闇が産み出され・・・

真の天蛇王が誕生した・・・

 

という事のみならず、姉を真の闇に突き落としてしまった事により、

 

孔雀の心の中の光までも奪い去ってしまった・・・

 

という状況に陥ってしまいます。
その後の孔雀は、肉体がかろうじて生きているのさえ不思議なぐらいの、魂の抜け殻のような状態になってしまいます。
そして、その間も、光と闇の対決は続けられていきますが、その行く末は、闇の圧倒的優勢で、光にとっては絶望的な状況でした。
しかし、ここで孔雀を救うべく救世主が立ち上がります。
それが、アシュラという一人の娘です。
彼女もまた、

 

この世の苦しみや悲しみを一身に受け・・・

その全てを清らかなものに変え・・・

新しく産み出す使命を持った・・・

阿修羅神・・・

 

をその身に背負って産まれてきていたのです。
アシュラのお陰で孔雀は生気を取り戻し、そして、二度と同じ過ちを犯さぬよう決意し、再び姉である天蛇王の元に向かいます。
そして、光と闇の決戦は、光の勝利へと傾いていきますが、それは同時に、姉の消滅をも意味するものでした。

しかし、孔雀は今までとは別の選択と行動を取ります。
それは、

 

自分の中の光を姉に与え・・・
姉の中の闇を自分でも分かち合い・・・

そして・・・

二人が光でも闇でもなく・・・
もう一度一つになれる所へ・・・
産まれる前の所へと・・・

 

全てを始まりに・・・
光と闇を一つに・・・

二人は解脱(げだつ)へと向かっていくのでした・・・

 

では、このスト-リ-はこれで終了です(笑)
男の子的なスト-リ-かもしれませんが、如何でしたでしょうか?(笑)

そこでまず、

 

「光と闇」・・・
あるいは、
「ポジティブとネガティブ」・・・

とは、

必ずしも「善と悪」に分離できる性質のものではない

 

という点を頭に入れて置いてみて下さい。
このTOPICSでも以前に、

 

(物事や出来事は中立でありながらも)
ほんの少しだけポジティブな方に比重が掛かっている

 

とお伝えした事があります。
そして、少し視点を変えると、科学の世界でも「物質」と「反物質」が同じ比率で出逢ってしまうと、全ては「消滅」します。
そして、現在の宇宙の成り立ちも、

 

ほんの僅かだけ「物質」の比率が重かったため・・・
その、ほんの僅かな部分で・・・
宇宙、そして、人間も含めた「物質」全般が創り上げられた・・・

 

と考えられている、というお話もお伝えして参りました。
そして、キリスト教の聖書においては、サタンは神の敵対者とされ、悪魔と呼ばれています。
しかし、

 

サタンも・・・元は、神に仕える身・・・

 

であった事から、堕天使と呼ばれています。
繰り返しですが、今回の、光と闇を兼ね備えた孔雀王も堕天使です。
ここで私がお伝えしようとしている点は・・・皆さん自身で、自由に発想して考えてみて下さい(笑)

ちなみに、私はキリスト教徒でもありませんし、基本的に無宗教ですが、宗教を否定している事も一切ありませんし、様々な宗教の中に見い出せる「共通の本質」や「長所(時には矛盾点も含め)」を探し出すのは好きです(笑)
このような観点からも、先ほどからの比重や比率という点を考える素材にも出来ます。

そして、「利己主義」と「利他主義」という言葉があります。
「利己主義」の対義語が「利他主義」とされていますが、

 

利己主義とは、周りや他(人)を省(かえり)みず、自らの利益や快楽のみを追い求める

利他主義とは、自らの利益や快楽よりも、周りや他(人)の幸せを考える

 

と定義されています。
では、本当に、「利己主義」と「利他主義」は、対義語のような、あるいは、光と闇に象徴されるような、相容れぬ正反対の意味なのでしょうか?

 

他の人の幸せを、自分の幸せとも感じられる・・・(利他主義)
そのような自分をも充分に愛する事が出来る・・・(利己主義)

そして、

自分を充分に愛する事も出来るが故に・・・(利己主義)
なお一層、他の人のさらなる幸せも願えるような心持ちになれる・・・(利他主義)
というようなサイクル(循環)・・・(統合)

 

は成り立ち得ないのでしょうか?
そして、今回のテ-マの「統合」の意味・・・皆さんはどのようにお考えになりますでしょうか?(笑)

ちなみに、お汁粉を作る時などには、甘さを引き立てたり、味に芯を通す為に、塩を入れたりします。
そして、見事なお汁粉が出来上がります・・・あるいは・・・産み出されます。
しかも、甘みと塩は、お互いに分離される事なしに・・・
これも、「統合」とは言えないのでしょうか?(笑)

2018年6月23日 11:06

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