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200回目のTOPICS ~ 「死」に「理由」は必要か? ~

こんにちは。
レイキ ヒ-ラ-&ヒプノセラピストの瀬川です。

 

今回のTOPICSがちょうど200回目になりますが、特段の記念や特別なものという訳ではありません(笑)
最初の頃は何を書いて良いかも分からず(今もあまり変わらないかもしれませんが(笑))、身近な事などを書き連ねつつ、かと言って、私個人の日常の出来事などのブログ的な感覚になるのもあまり意味がないと考え、その都度、思いついたり、その時々の様々な出来事などを題材として取り上げて参りました。

 

そして今回は、一度は問題提起として扱ってみたいと思っておりました「 ~「死」に「理由」は必要か? ~」というテ-マですが、まず、今回のテ-マも現在までの科学や医学で証明されているものではありませんのと、今回のテ-マにつきましては、様々な誤解を生じさせかねない怖れ・・・不快な思いをする方もいらっしゃるかもしれない・・・現実的に考えたら突拍子もないのでは・・・などの、どちらかと言えばネガティブな反応を産み出しやすい側面が強いかもしれないと考え控えてきましたが、今回は200回目という自分なりの勝手な後押し?と思い、取り上げる事に致しました。
そして、今回の内容は、安易な軽い気持ちや、あるいは願望や気休めなどの趣旨で書いている訳でもありません。
なぜなら、

 

私も(多くの)大切な人達の旅立ち(他界)を経験してきたから

 

です。
そして、今回のテ-マにおける一番の目的は、

 

意識の変容

 

という点です。
とは言っても、今迄の全ての自分を捨て去る、あるいは、悟りを開いて高尚な人になる、という意味合いでもありません(笑)
別の表現を借りると、

 

集合的無意識に属する思い込みを手放すチャンス

 

と捉えて頂ければと思います。
今までのTOPICSでも思い込みについては触れてきておりましたが、集合的無意識の観点からは敢えて取り上げて参りませんでした。
そして、集合的無意識というのは、精神科医・心理学者であるカ-ル・ユングが提唱した概念ですが、私なりの個人的解釈における集合的無意識とは、

 

多くの人(類)における暗黙の了承

 

という点がある事から、集合的無意識という用語を活用すると、とても高い壁のように感じられ、それを変えていくのは至難の業だ・・・などの思いを持たれてしまうと逆効果になるとも考えておりました。
そして、この集合的無意識には様々なものがあります。
例えば、幸せになるには相当な頑張りと努力が必要で、時には何かを犠牲にしなければならない・・・年を取ると病気になりやすい・・・自分を変える事はとても難しい・・・など。

 

しかし、集合的無意識であっても、あるいは、かなりの多数の見解であっても、それが「真実」を反映しているとは限らない事と、それに皆が従う必要もない事、そして、どのような集合的無意識であろうと、

 

(変えたいと思うのであれば)変えていけるのは一人一人の思い

 

であります。
勿論、全ての集合的無意識がネガティブな側面に当てはまる訳でもありませんし、ポジティブな集合的無意識も当然存在しています。
そのようなポジティブな側面を持つケ-スであれば、わざわざ変えたり手放したりする必要性もありません。
ただ、現在では、

 

自分が信じていると思われる事柄が・・・

自分で考え導き出したものでは無いにも関わらず・・・

それに唯々諾々と従う事に慣れてしまい・・・

それが故に・・・

本来の自分自身を見失ってしまっている・・・

 

という側面が肥大化してきているようにも感じられます。
そこで、これから書き連ねていく内容は、スピリチュアルな視点も含まれますが、この視点の多くが、現在の科学においても最先端として研究されている分野と、かなり多くの点が「重なって」います。
つまり、今迄であれば空想的や妄想的、あるいは、時には現実逃避として使われてきていたスピリチュアルな見方の部分と、現在の科学の研究分野の向かっている先が、

 

次第に一つの同じ道として接し(近づき)つつある

 

という傾向をも踏まえたものです。
そして、信じる信じないも皆さんの全くの自由ですし、善し悪しという問題でもありません。
どのように捉え、そして、それを踏まえ、人生においてどのように取り入れていくのかを判断するのも、皆さんの全くの自由です(笑)

 

では、進めて行くに当たりまして「寿命」という概念がまず必要になります。
現在の所では「寿命」を計測出来る機器類も存在しておりませんし、ある一定の長さの人生を過ごせた人が「死」を迎えれば、それを良い意味での「寿命」と見なされたりしています。
別の表現では、「大往生」や、時には「老衰」と呼ばれたりもしています。
そして、この世では、九死に一生を得る、あるいは、絶体絶命の危機から脱する事が出来た、などの事象は確かに(結構多く)存在しています。
これは、よく、

 

奇跡

 

と言われたりもしております。
そして、最新の人体の研究分野などにおいては、

 

人の肉体は200年程度は保つ事が可能

 

という見解も見受けられたりしています。
ちなみに、今回のテ-マとは全く別の観点ですが、現在では、実際にご遺体(の全部または一部)を冷凍保存している施設も存在しておりますし、このような趣旨の遺体保存というのは、個人的にはエジプトのピラミッド時代と同じ死生観(再び自分の同じ肉体に宿るために保存する)から来ているものと考えます。
そして、スピリチュアルな分野では、

 

「寿命」は自分で決めてきたもの

 

という捉え方がされております。
ただ、決めてきているとは言っても、〇〇年〇〇月〇〇日まで、というように正確無比に決めてきている訳ではありません。
あくまで目安ですので、(多少の)幅という余地は残されております。
また、この「寿命」という意味合いには、集合的無意識における「時間」という概念の違いも関係していると考えられますが、それはまた別の機会に考えてみたいと思っております。
そして、「寿命」は自分で決めてきているというのは、「寿命」が来るまでは「死」を迎えない、とも言えると同時に、

 

犯罪や事故などにおける「死」はどういう事なの?

 

との疑問も当然出てきます。
この点に関しては、実際の被害者の方やご遺族の方などの心情を踏まえますと、私も迂闊に表現出来ないとの思いや考えもあります事と、言葉通りの真正直に認めてしまえば犯罪などを助長・肯定するような見解にも捉えかねられない・・・運命は変えられない・・・などの、今回のテ-マとは真逆の趣旨にもなりかねませんので、この先をお読み頂いて、皆さんなりに考えて頂く事が大切な事と思います。
ただ、自殺は別です・・・「寿命」ではありません・・・

 

では、何歳でも構いませんが、皆さんが自分の「寿命」を決めてきていると考えた時に、犯罪や事故はひとまず脇に置いておくとしまして、あなたは、

 

「死」を迎える際に、何か「理由」は必要であると考えますか・・・

健康で元気な状態で「死」を迎える事は不可能な事だと考えますか・・・

あるいは、

健康で元気であるならば「死」に至る事はないので、やはり「理由」が必要であると考えますか・・・

 

では、「死」に「理由」が必要であると仮定した場合、

その「理由」は「誰」にとって必要なものなのでしょうか・・・

 

・・・ここ迄で、皆さんはどのように考えましたでしょうか(笑)
私個人としては、仮に「死」に「理由」が必要な場合を考えるならば、

 

それは・・・残された人達にとっての、「納得」という癒しや慰めとして・・・

 

と感じます。
幼い頃に「寿命」を迎える場合は別としても、私達の多くは自らの「死」を迎える前に、他の人の「死」を経験させて貰っています。
そして、明白なご病気などでの突然死は別としても、昨日迄はいつも通りの元気で健康な状態で過ごしており、朝起きたら「死」を迎えていたというケ-スでは、社会的には検死(検視)などが必要になるケ-スが多いです。
そして、

 

社会的とは・・・集合的無意識から産み出されているもの

 

でもあります。
勿論、私はいかなる時でも検死(検視)は不要だと考えている訳ではありません。
犯罪に巻き込まれた結果というケ-スを見落としてしまう場合も出てきてしまう怖れもあるからです。
つまり、ここでの集合的無意識においては、

 

社会的に見ても・・・「死」に「理由」は必要である・・・

 

との強固な考えが存在しているという側面の一例です。
そして、あなたの身近な方が、昨日まで健康で元気に過ごし、仮に検死(検視)などで病気の原因が見当たらないと判断された時、

 

どうして・・・???

 

と思われる事と感じます。
そして、「死」の「理由(原因)」が判明しないならば、

 

どうしても・・・その方の「死」に「納得」がいかない・・・

 

と思い詰めていくかもしれません。
そして、私は先ほど、多くの方が他の人の「死」を経験させて貰っている、とお伝え致しましたが、そのような経験を経て「死」に対する様々な感情を理解しているからこそ、

 

自らの「死」においても・・・残された人達の「納得」の為に・・・「理由」を創り出そう・・・

 

と考えても不思議ではないようにも感じます。
しかし、仮に自らで「寿命」を決めてきているのであれば、

 

わざわざ・・・

ご本人にとっては、その「寿命」を全うするための「理由」を創り出す必要性は・・・

無いのかもしれない・・・

 

と捉える事も可能ではあります。
なぜなら、

 

「死」に「理由」が必要なのは・・・ご本人ではなく・・・残された人達の(「納得」)の為に必要・・・

 

と捉える方が理屈にも合うからです。
そして、

 

集合的無意識とは・・・

生きている人の意識の集合体でもあるが・・・

「死」を迎えた人も、生きている時には・・・

同じ集合的無意識の一翼を担っていた・・・

 

のが自然な事でもあります。
そして、繰り返しですが、犯罪や事故などの「理由」は別としまして、

 

「死」に「理由」が必要ないのであれば・・・

「病気」などの「理由」を創り出す必要性もなくなるのでは・・・

 

との考えも導かれる事になります。
そして、

 

「病気」などの「理由」が必要なくなる事により・・・

健康で元気な状態で「寿命」を全うし・・・

「明日、旅立つけど、今迄ありがとう! 急がないけど、また再会を楽しみにしているよ!(笑)」

などのような、(一時的な)お別れの挨拶を交わす事も可能になる・・・かも?

 

との流れもあり得るかもしれません。
いかがでしょうか?
突拍子もない、頭のオカシイ見解と思われているかもしれませんね(笑)

 

では、少し視点を変えて、私達の意識あるいは心、はたまた魂や何と呼んでも構いませんが、それと現実世界との関係性を見ていきたいと思います。
一般的に、つまり、集合的無意識においては、

 

現実世界の中の一部(部分)として私達の意識は存在している

 

と解釈されています。
表現を変えると、

 

現実世界が「主」であり、私達の意識は「従」である

 

とも言えます。
そして、同じような集合的無意識に、意識という言葉ではなく、魂という言葉を当てはめると、次のような表現になります。

 

私達の肉体の中に魂が存在している

 

と。
勿論、魂という言葉を、心という言葉に置き換えても同じ意味です。
そして、これには別の見解も存在しています。
それは、

 

私達の意識の一部が反映されているのが現実世界である

 

と。
そして、これも表現を変えると、

 

私達の意識が「主」であり、現実世界は「従」である

 

と。
そして、これにも魂、あるいは心という言葉を当てはめてみます。
すると、

 

現実世界とは私達の魂(心)が反映されている表現の一部である

 

と。
つまり、

 

私達の魂(心)が現実世界を創り上げているのであって・・・

肉体の中に魂(心)が存在しているのではなく・・・

魂(心)が表現している一部が現実世界や肉体である・・・

 

と。
少し難しい面もあるかもしれませんので、別の例えも活用してみます(笑)
一般的な集合的無意識においては、よく次のような表現がなされます。

 

車が「肉体」であり、運転手(人)が「心(魂)」

 

と。
しかし、別の観点からでは、

 

ラジコンやミニカ-遊びのように、「車(肉体)」を操作している人が「心(魂)」

 

と。
イメ-ジは掴めましたでしょうか?(笑)
一般的な集合的無意識における視点とは、ほぼ真逆のようにも感じますが、実は、このような意識が「主」であり、意識が現実世界を創り上げているというのは、

 

先ほどの最先端の科学においても同じように解釈されつつあり、このような今迄とは違う視点が研究対象となって来つつある

 

というのが、現状の進行具合でもあります。
また、「時間や空間も幻想では?」という着眼点も同じように含まれています。
それが、現状では「現実と思われている世界も・・・実は幻想なのでは?」というテ-マに発展しつつあるという意味合いです。

それでは、ここでもまた視点を変えてみます。
数十年前までは、

 

100m走で人(類)が10秒を切るのは・・・夢のまた夢・・・

 

と言われてきました。
しかし、ある人が10秒を切った事により、

 

最近では10秒を切る人が増え続けている

 

というのが現実世界での出来事です。
勿論、トレ-ニング方法の発展や、シュ-ズやウェアなどの開発の貢献もある事と思います(笑)
しかし、ここ数十年の間に、人類の肉体が飛躍的に改良された訳でもありませんし、足の長さが倍になった訳でもありません(笑)
つまり、

 

誰かが10秒を切る前から、元々10秒を切る能力は人(類)に備わっていた

 

と言う事が言えます。
そして、最近の記録更新の要因というのは、

 

10秒を切る事が(自分でも)可能である・・・という・・・意識の変容

 

から来ている側面がとても強いように感じます。
そして、今回のテ-マは「寿命」の迎え方などを取り上げている訳でもありません。
繰り返しですが、

 

意識の変容

 

が趣旨となっており、「死」に「理由」は必要か?は、問題提起の為の、一つの側面として取り上げております。
そして、現在の所の集合的無意識においては、何かの変化を起こそうとする時、

 

現実世界という「外側」を変えようと試みている

 

というのが当てはまっています。
そして、

 

この現実世界という「外側」と、「死」の「理由」とは全く同じもの

 

でもあります。
なぜなら、現実世界も肉体も共に「外側」に分類されるものであり、それが先ほどの、肉体の中に魂(心)は存在しない、との見方になっているからです。
そして、100m走のケ-スでもお分かりの通り、

 

現実世界という「外側」を変えたいのであれば・・・

変えようと試みるのは「外側」ではなく・・・

私達の意識という「内面」である・・・

 

という視点になり、繰り返しですが、

 

私達の意識の一部が反映されているのが現実世界である

 

という捉え方が、実はゴ-ルではなく、出発点となり得る、という意味合いです。
しかし、「内面」や「意識」を変えると言っても、どうやって行えば良いのか分からない・・・という思いを持つのも理解出来ます(笑)
そこで、イメ-ジや感覚として捉えて頂けるよう、一つのモデルケ-スをご紹介致します。

 

もし、あなたが自分の笑顔を見たい!と思う場合には、鏡を見る事が出来ます。
あるいは、スマフォで撮影したりでも構いません(笑)
そこで、あなたは鏡の前に立ちます。
しかし、

 

鏡の中のあなたは笑顔ではありません・・・

何故でしょうか・・・?

 

ここまでお読み頂いていれば、もうお分かりかと思いますが、

 

鏡の中のあなたの笑顔を見たければ・・・

まずは・・・

あなた自身が笑顔になる必要性がある・・・

 

と言う事です。
そして、

 

ここでの鏡とは・・・現実世界と同様です・・・

 

あなたが鏡の前でしかめっ面をしていれば、鏡の中のあなたはしかめっ面のままです。
また、あなたが笑顔になる前に、鏡の中のあなたが微笑みかけるような事があるとすれば、それこそホラ-映画になってしまいます(笑)
つまり、

 

意識の変容とは・・・

鏡の前に立っているあなたが・・・

どのような表情を表現するのか・・・

そして・・・

どのような表情を表現したいのか・・・

 

という行動と全く同じ事になります。
とてもシンプルなものですが、現在の集合的無意識では「複雑」である事が「成長」あるいは「価値あるもの」と同じように見られがちにもなっています。
そして、これも繰り返しですが、現在の集合的無意識においても役立つものも勿論あります。
しかし、集合的無意識というものに対して、それこそ無意識的に何でもかんでも「当たり前」あるいは「常識」と「思い込み過ぎて」しまうと、あなたにとっての「真実」から遠ざかってしまう事にもなりかねません。
それが、

 

あなたの意識の一部が反映されているのが現実世界である

 

と言う事にもなります。
つまり、

 

意識的であれ無意識的であれ、あなたが信じている事が、そのまま現実世界となって(鏡のように)見せてくれている

 

とも表現出来ます。
そして、

 

私達の意識はエネルギ-である

 

と言う観点は、ほぼ科学においても証明されつつあります。
そして、

 

エネルギ-は消滅する事はなく・・・ただ・・・形(態)を変えるだけ

 

というのは、現在ではそれこそ科学における「常識」になっています(笑)
すると、消滅する事はなく、ただ形(態)を変えるという、

 

私達の意識においては・・・

「死」という消滅はそもそも存在せず・・・

なおかつ、「外側」という現実世界の「形態を変える」パワ-(という意識)が元々備わっている・・・

 

という視点から見た時に、本当に「死」に「理由」は必要になりますでしょうか?
そして、現在の集合的無意識においては、「死」に「理由」を必要としているとしても、

 

現在の私達は・・・

「死」への「理由」付けを行う事には焦点を当てているが・・・

「生きる」ことへの「理由(目的)」から目を背け過ぎてはいないでしょうか・・・?

 

どのような集合的無意識でも、信じる信じない、あるいは、受け入れる受け入れないも全くの自由です(笑)
ただ、集合的無意識の一部を創り上げているのも私達自身であり、集合的無意識が存在するからといって、それにあなた自身の全てを当てはめたり、あるいは、従わなければならない「理由」や必要性もありません。
もし、何かを変えたければ、あなたの「外側」のみをクロ-ズアップするのではなく、あなた自身の意識という「内面」を変容させる事に焦点を合わせてみて下さい(笑)

 

そして、余談ですが、青森県は短命県返上への取り組みを進めております。
私はそのような取り組みに反対している訳でもありませんし、過度の塩分摂取を抑えたり、出来る範囲内で軽い運動をするなどは効果もあるでしょうし素敵な事とも思いますが、ただ、私個人的には、

 

順位などに一喜一憂するのはいかがなものか?

 

と感じます。
順位を付ければ必ず最下位や一番などが出てしまいます。
運動会などのスポ-ツ競技などで順位を付けるのとは性質が全く違いますし、そして、これが昂じてくると、

 

長生きは「優」で、短命は「劣」

 

という集合的無意識が強化されていく事と感じます。
そして、長生きの人や家系が「優」で、それ以外は「劣」という方向性に向かうであろうというのは、歴史的に見ても、火を見るよりも明らかです。
そして、ここには、

 

本来の意味の「寿命」という視点

 

すら、考えて見る事もなく、完全に抜け落ちてしまっているという風に感じます。
今回のTOPICSのテ-マにおいては、異論反論など様々ある事と思います(笑)
私もどれが正しくてどれが間違っているなどをお伝えしている訳でもありません。
どのような意見や見方を持って頂いても皆さんの自由です。
ただ、今回のようなテ-マは、重めの内容でもありますし、誤解を生じさせてしまう怖れなどもある事から、何かの機会を捉えて「考える素材」として頂けるよう提供してみたいとの思いがありましたので、それが今回の200回目になっただけの事です(笑)

2018年5月5日 03:05

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