トップページ » あなたの心の「間(ま)」を「魔(ま)」に変えないために

あなたの心の「間(ま)」を「魔(ま)」に変えないために

こんにちは。
レイキ ヒ-ラ-&ヒプノセラピストの瀬川です。

 

先日、コンピュ-タ-ウィルスを送りつける事による世界的規模の事件が起こっていました。
少し性質は違うかもしれませんが、世の中には特殊詐欺や様々な送りつけ商法などのように、魂の歪(ゆが)み歪(ひず)みの現れのような事象というものが、残念ながら数多く存在しています。
そして、同じような性質のものとして、以前には不幸の手紙や、現在では不幸のメ-ルやSNSなどを介在している同種の類いのものも存在しています。
そこで、今回は「あなたの心の「間(ま)」を「魔(ま)」に変えないために」というテ-マをお伝え致します。

 

ところで、不幸の手紙というのは皆さんもご存じかもしれませんが、例えば、

「  この手紙を受け取ったあなたは、さらに10人に同じ手紙を送らないと不幸になる 」

といった、一方的に送りつけ、送りつけた相手の不安や動揺を誘うような、とても卑劣な性質のイタズラでもあり犯罪です。
私もかなり前ですが、携帯に同じようなものがチェ-ン(鎖)メ-ルとして送られてきたことがあります。
その時、私が取った行動は、言わずもがなですが、

 

完璧に無視する

 

という、ただそれだけでした。
最初にお伝え致しますが、このような不幸の手紙やメ-ルなどを無視しても、

 

100%不幸なことは起こりません!

 

ということを、まずはしっかりと認識して頂ければと思います。
そして、これも最初に頭に入れておいて頂くと良いかと思いますが、仮に、あなたがそのような手紙やメ-ルに不安などを覚え、そして、手紙なりメ-ルなりを同じように他の人に送りつけてしまうと、

 

あなたの心や精神は、そのような卑劣な事をしでかしている相手と同じ低いレベルにまで落ちてしまう

 

ということです。
昔から言われているように、ネガティブな側面から見た「類は友を呼ぶ」、あるいは、「人を呪わば穴二つ」というように、そのような行為をしでかしてしまうと、必ず自分に戻ってくるという意味合いです。
また、この「人を呪わば穴二つ」において誤解されている点は、勝手に呪われている人に悪い事が起き、そのために呪った側にも同じく悪い事が起きるという風に解釈されている場合もありますが、自らの預かり知らぬ事でいくら呪われようと、そのような悪影響を受けることはありません。
なぜなら、

 

そのような低いレベルの思念には、何か(不幸など)を引き起こせるだけのエネルギ-は伴っていない

 

からです。
ただし、覚えておいた方が良い「人の思念」の影響については、最後の方に少しだけお伝え致します。
そして、理性を持って、かつ、冷静に考えればそのような一方的な不幸の手紙やメ-ルに不安や動揺を覚える必要性はないということはご理解頂けるかと思いますが、しかし、そうは言っても少しは気になる・・・という方もいらっしゃるかと思います。
では、それが何故なのか?という点を見ていきたいと思います。

 

まず、仮のケ-スとして、あなたは運転免許証を取得していないと致します。
そして、そのようなあなたに、次のような不幸の手紙やメ-ルが送られてきたとします。

 

この手紙やメ-ルを他の人に送らないと、あなたは車の運転中に事故を起こす

 

と。
このケ-スでは、ほぼ、不安や動揺を覚えることはないかと思います。
なぜなら、あなたは運転免許証を取得していないので、車を運転することはあり得ないからです。
少なくとも、今の時点では、100%、車の運転により事故を起こすことはあり得ないという事が確信出来るからです。
なお、無免許で運転をして事故を起こしてしまった場合は、それは、自業自得という事になりますが、、、、、

 

では、何故、頭では分かっていながらも、このような場合に不安や動揺を覚えてしまうのか・・・
それは、

 

「不幸」という言葉が持っている、多くの「間(ま)」が伴うイメ-ジ

 

によるものだからです。
では、まず、

 

あなたにとっての「幸せ」とは何でしょうか?

 

答えは人の数ほどあるでしょうし、一人の人が幾つもの幸せを持っているかと思います。
それと同じように、

 

不幸と思える事柄も人の数ほど様々である

 

という事です。
そして、

 

「幸せ」とは、それ自体が完全である

 

という性質があります。
つまり、「幸せ」とは、

 

今この時点で既に完全でありながらも、さらに幾らでも積み重ね上げていけるもの

 

という性質が備わっています。
一方の「不幸」における性質とは、

 

「不幸」とは、一見すると不完全な面があると思われる傾向がある

 

という点です。
そして、

 

「不完全」とは、何かが「欠けて」いる

と、一見すると思われてしまう状態であり、この、

「欠けて」いるという箇所が「間(ま)」となっている

 

という状態です。
そして、この、

 

「間(ま)」を自分の力で埋めていくことが「幸せ」

となり、この、

「間(ま)」を他の人や何かの状況を悪用して、無理矢理に埋めようとすると「魔(ま)」に変質する怖れが出てくる

 

という大きな違いがあります。
ちなみに、「幸せな人を見ていると自分も幸せな気持ちになれる」というのは、「幸せのお裾分け」のようなもので、これは「幸せの積み重ね」となっています。

 

「不幸」と思えてしまう事柄の「源」には、不安や心配、あるいは、他の人に対する羨望など、多々ある事と思います。
このような感情は程度の差があるだけで誰でも持っているものです。
勿論、私自身も同様です。
そして、この感情が産み出されている源には、

 

他者との比較による幸せの定義

 

というものが存在しています。
つまり、今回のような不幸の手紙やメ-ルを送りつける人は、

 

まず、その人自身が不幸と感じている

 

という点は絶対的に存在しています。
そして、自分以外の他の人を、自分以下の不幸の思いにまで陥(おとしい)れようとすることで、

 

相対的に自分が幸せである、と錯覚を起こしている

 

という安堵感に繋げている傾向が見受けられます。
そして、そのような手紙やメ-ルを受け取ったあなたが他の人に送りつけようとする時、

 

あなたは「自分には力がある」という素晴らしい能力を放棄してしまう

 

という事に繋がっていきます。
つまり、

 

不幸の責任転嫁

 

をしてしまうということです。
そして、ここで、大きな想像力を働かせてみて下さい。
もし、仮にあなたが不幸の手紙やメ-ルを送りつけることによって相対的に幸せを感じ得たとし、送りつけられた他の人が、またまた他の人に送りつけることによって相対的な幸せを感じる・・・これが繰り返され続ける・・・もう、お分かりでしょうが、ネズミ講と一緒で、

 

最後には「幸せ」が無くなってしまう

 

という状況が「あっという間」に作り出されてしまいます。
そして、

 

あなたの周りの全員が「不幸」と感じている世の中で、あなたは「幸せ」を感じ入る事が出来るでしょうか?

 

そして、このような行為が繰り返されることにより、

 

いつしか・・・「間(ま)」が「魔(ま)」に変質してしまう

 

という状況に繋がってしまいます。
そして、実は、このような仕組みは不幸の手紙やメ-ルなどの、全くの他人から一方的に送りつけられるケ-スに限りません。

 

身近に潜む、他の人の悪口や、根も葉もない噂を垂れ流す

 

というのも同様です。
そして、このような行為が人間関係を悪化させる原因となっている事は、このTOPICSをお読み頂いている皆さんには充分ご理解頂けていると思います。
このような行為に荷担してしまうということは、

 

自らを低いレベルに陥れ、ネガティブな意味での「類は友を呼ぶ」

 

という悪循環を自らが招いてしまうことになります。
ここまでお読み頂いて、若干気持ちが落ち込み気味の方もいらっしゃるかもしれませんが、大丈夫です!
先ほど私は、

 

「不幸」には「欠けて」いる点があるが故に「不完全」
であり、
「幸せ」はそれ自体が「完全」であり「積み重ね」が可能

 

とお伝え致しました。
そして、他の人や状況を悪用して「間(ま)」を埋めようとすると、悪循環に陥りがちになりますが、

 

私達の誰もが力を持っている

 

という点を今一度思い出し、そして、

 

その「自分の力」を「欠けて」いる?と思われる所に埋めようと決める
と、その瞬間に、
「幸せ」へと転嫁し、あとは「積み重ねる」だけ

 

で大丈夫という事になります。
繰り返しですが、低いレベルの思念には、あなたが自らの「間(ま)」に招き入れない限り、不幸なことも起こりませんし、「魔(ま)」に変質してしまうこともありません。
そして、今回のテ-マのような「間違い」を犯す事なく、自分には力があるんだ、という点を、自信を持ってみて下さい。
ちなみに、ここでの「力」というのは、自分の望む人生を創り上げていく際に、他の人をむやみに巻き込む事もなく、他の人の何かを奪ったり傷付けたりせずとも、自分の人生を実現出来る「力」という意味合いです。

 

なお、「人の思念」の影響についてですが、確かに私達の誰もが持っている「思念」には「力」があり「実体」があります。
そして、本来これは悪影響を及ぼす性質のものではありません。
ただ、誰かに対する「過度の心配や不安など」をあなたが持ち過ぎてしまうと、相手の方は無意識ながらも「重荷と感じる」というケ-スは実際にあります。
相手への気遣いから「心配や不安など」を覚えてしまう事があるのもよく理解出来ますし、私自身も同様ですが、

 

「過度」になり過ぎない

 

という点を意識していれば、それで大丈夫です。
そして、どうしても「過度」に思えてしまう点があるのであれば、押し付けにならぬように、その「過度の部分」に対応している「思い」を、相手に対する何らかのポジティブな「行動」で示すという風にしてみて下さい。
そのように「過度の思い」を「行動」に転嫁することで、相手への「過度な思念」が「適切なレベル」に自然と落ち着くようになっていきます。

 

「間(ま)」は誰にでもありますし、それを怖れる必要性もありません。
別の視点から見ると、

 

「間(ま)」は「幸せ」への「伸びしろ部分」

 

とも言えます。
そして、この「間(ま)」は自分が創り出しているものであり、「間(ま)」を上手に活用して「幸せ」へと転嫁させるのも、あるいは、「魔(ま)」へ変質させてしまうかもしれない可能性もあなた自身が握っており、充分コントロ-ルが可能なものです!

 

ちなみに、少しだけ余談を続けますが、一国の指導者?と言われている人の、「忖度」や「意向」の問題が取り上げられています。
是非、真相の解明に結びつけて欲しいと思う一方、現在の所は、まだまだ遠い状況のようにも思えますが、「類は友を呼ぶ」ということの「行動の結果」という観点から考えて見ると、何かが見えてくるかもしれません、、、、、

また、「共謀罪」「テロ等準備罪」とも言われている法案が通過しそうな状況でもありますが、確かにテロに限らず犯罪を未然に防ぐ努力や方策も必要なのでしょうが、「類は友を呼ぶ」ということから集まった、ごく限られた「権力を持った人」の範囲内でのみ通用される考えが「善」とされ、それ以外は「悪」とされてしまう可能性も少なからず含んでいるようにも感じますし、「何が善?」という考えでは、その一端は以前のTOPICSでも少しお伝えした、「道徳の教科化」という現実にすでに現れつつあるのでは?、、、、、と個人的に感じる点もあります。

「内心」は自由だからという理由で、心の内で人を殺したり傷付けたりするような思いを持つ事が好ましいとは思いませんが、また同時に、詰まる所、今回のテ-マのように「何を幸せと感じ、何を不幸と思うのかも、個人の内面により人それぞれ自由」とも感じています、、、、、

そして、私達、人間という存在、あるいは、魂としての存在という風な表現を借りた時に、完全に「内心の自由」を奪われるという事態は起こり得ませんが、しかし、この世という社会においては「内心を表現する自由」を奪われるということは、私達が人間として存在する意味を失ってしまう事にも繋がりかねないのでは、、、、、とも思っています、、、、、

2017年5月20日 03:05

«

»

TOPへ戻る

新着投稿

過去の投稿


プライバシーポリシー

当サイトのご利用規約

サイトの詳細につきましては上記のご利用規約をご確認ください。

当サイトはリンクフリーではありません。
事前の連絡と許可審査が必要です。

スマートフォン、タブレットで読み取ってください

先頭へ